読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

アラン『幸福論』集英社文庫、1993年2月

幸福論 (集英社文庫)

幸福論 (集英社文庫)

■内容【個人的評価:★★★★−】

  • 不機嫌というものは、結果でもあるが、それに劣らず原因でもある、と私は言いたい。わたしたちの病気の大部分は、礼儀を忘れた結果である、とさえ考えたい。礼儀を忘れるということは、人間の肉体がそれ自身にたいして振る舞う暴力だ、と私は考える。
  • わたしたちの思念は、眠りたい時に眠れないと腹を立てる。そしてその焦燥のためにまさに眠れなくなるようになる。あるいはまた、最悪のことを心配するあまり、わたしたちの思念は、不吉な空想によって不安な状態をたかぶらせ、ますます病気をこじらせてしまうこともある。
  • 気分にさからうことは、判断力のなすことではない。判断力はここでは何の役にも立たない。そうではなく、姿勢を変えて適当な運動をやってみる必要がある。というのは、私たちの身体の内で、運動を伝える筋肉だけが、私たちが統御しうる唯一の部分だからである。微笑したり、肩をすくめたりすることは、心配事を追い払う策としてよく知られている。それに、いともたやすいこの運動がたちまち内臓の血液循環に変化を与えることに注意するがいい。人は意のままに伸びをしたり、あくびをしたりすることができる。これは不安や焦燥に対する最良の体操である。
  • 死んでしまった人々がどう感じたにしても、死はすべてを葬り去ってしまったのだ。だが、生き残っている人々の想像力のなかでは、死者は決して死ぬことをやめないのである。
  • 舞台に出るときは恐ろしさで死ぬほどの思いをするピアニストも、演奏をはじめたとたんにたちまちそれが治ってしまうというのは、どう説明したものだろう。私は、芸術家があのしなやかな指の運動によって恐れをゆさぶり、これを解きほぐしてしまうのだと理解したい。
  • 眠りたいと思ったら、眠れると確信するがいい。要するに、どんな人間にとっても、この世でもっとも恐るべき敵は自分自身を措いてないのである。
  • 労働は、もっとも良いものであり、もっとも悪いものでもある。自由な労働ならもっとも良いものであり、奴隷的なものならもっとも悪い。私が最高度に自由なものと呼ぶのは、戸をつくる指物師のように、自分固有の知識により、また経験にしたがって、労働する人自身によって規制される労働のことである。
  • 人間は常になにかよいことを目指している、と言われている。しかし私には、道理にかなった目的の前では人間は怠け者であるように見える。人間の想像力は、まだなんら形をとっていない仕事にたいして、人々の関心を持たせるほどの力を持っていない。それだからこそ、いいと思いながらも少しもやらない仕事が、私たちの前にはたくさんあるのだ。
  • 自分で自分をさいなんでいる人々のすべてに私は言いたい。現在のことを考えよ、と。刻一刻と続いている自分の生活のことを考えよ、と。
  • 思いついたことをなんでも言ったり、最初の感情に溺れたり、驚き、嫌悪、楽しさなどを、自分が感じたものがなんであるか分からないうちに、慎みもなく表すような、軽はずみな人間は、無作法な人間である。こういう人は、いつでも言い訳をしなければならないだろう。そういうつもりもなく、自分の意図に反して、他人を混乱させたり、不安にしたりするからだ。
  • 軽率に何かの話をして、思いもしなかったのに人の気持ちを傷つけるのはつらいことだ。礼儀正しい人は、人に与える苦痛がどうにもならぬうちに、気まずさを感じて、手際よく方向転換する人である。しかし、言うべきことと、言ってはならぬこととを前もって見抜き、それが疑わしいときには、一家の主人に話の方向を任せるのが、さらにいっそう礼儀正しいやり方である。
  • 礼儀正しいとは、すべての身ぶり、すべての言葉によって、次のことを言うか、表情で示すかすることである。「いらいらするな。自分の人生のこの瞬間を台無しにするな」と。
  • 幸福の第一の規則は、現在のものにせよ、過去のものにせよ、自分の不幸について決して他人に話さないということだろう。

■読後感
読んでいて思うのは、まず身体性を重視しているということ、である。思惟が先にあるのではなく、身体の動きが思惟を支配している。
事例を多く採用しており、日常の振る舞いに着目している。理屈のようでいて、どちらかというと随筆のようである。
過去や未来ではなく今に着目している。過去こうしていたらよかったとか、未来に恐れをいだくことを意味のないこととしている。
たしかにわれわれの悲しみ、不幸は、こうしたことに基づく部分が多い。意味のないことで悲しんだり苦しんだりしている。それこそが人間ともいえるが。