橋本治『貧乏は正しい!ぼくらの未来計画』小学館文庫、1999年3月

ぼくらの未来計画―貧乏は正しい! (小学館文庫)

ぼくらの未来計画―貧乏は正しい! (小学館文庫)

■内容【個人的評価:★★★★−】
○第一章「資本主義はもう終わっているかもしれない」

  • 資本主義の前提は借金なのだ。そして、この資本主義の前提ともなる借金とは、「返して終わり」ではなくて、「永遠に続くもの」なのである。
  • 資本金というのは一種の見せ金で、資本金が400万円でも400億円でも、それだけの現金をいつも金庫のなかに用意しておかなければならないというものではない。そのはじめの会社設立の手続きの時に、「これだけの資本金はあります」と、見せればいい。その金は会社を設立するための金で、それだけの金を集めて(借金して)、その金を使って会社の建物を建てたり借りたり、人を雇ったり事務用品を買ったり、利益を生む最初の商品を作り出すための仕入れの代金に当てたりする。だから、資本金を400万円や400億円集めて設立された会社が、設立と同時に現金ゼロになっていたって、べつに不思議ではない。
  • 自分で自分に必要な金が調達できるようになれば、もう借金の必要はなくなってしまうのだ。会社と借金に関する新しい段階というのはこういう段階で、国全体が貧しくて、融資の金にも困っていた日本という国は、いつの間にかそういう状態に突入していた。
  • 銀行という金貸しにとっては、世間が貧乏で、みんなが金を借りたがっているという状態こそがいい状態なのだ。金貸しにとって、自分の持っている金を借りていってくれる相手がいる、ということがなければ、自分の業務は成り立たないのだから。
  • 金余りバブルの時代の日本には、金が余っていた、ということで、それはそのまま、金を借りてまともな事業を設立したり拡大しようとする人間が少なくなっていたということなのだ。
  • 金余りのバブルというのは、そういう資本主義の末期症状だったのだ。
  • 日本のオヤジたちは、あまりにも貧乏ということに足をとられ過ぎたのかもしれない。まだまだ貧乏だということばかりを考えすぎて、どこまでいけば金があるという状態になるのか?ということを考えなかった。
  • 大蔵省を代表とする日本のエスタブリッシュメントおやじたちは、金融機関の危機は国民生活の危機だという心配をしているが、これは、まだそんなに金がなくて資本主義が行き詰まっていなかった19世紀か20世紀初頭段階の心配である。現在の金融機関の危機は単なる金融機関の危機なのであって、それが国民生活の危機に結び付くかどうかは分からない。
  • 資本主義が終わってしまっている以上、資本主義の原則に乗っ取った好景気とか不景気というものは出現しない。

○第二章「1980年代はじめの日本に起こったこと」

  • 資本主義の社会には、金を持っている人間=投資家と、金は持っていないがしかし仕事はする人間の二種類がいる。
  • 若者は金がないから、老人から借りる。老人は働けないから、若者に貸して儲けをとる、というバランスが崩れたらどうなるか。それは金だけは持っている寝たきり老人だけが世の中にいて、体が自由に動ける若者がほとんどいないというとんでもない状態になる。
  • ヨーロッパの国は、自分とこの製品を買ってくれと言った。アメリカも同じようなことをいった。ただ、日本人の好きなブランド物をいっぱい持っているヨーロッパに比べアメリカは損だった。日本人のほしいものは、アメリカよりもヨーロッパの方にずっといっぱいあったからだ。だから、ヨーロッパは「買ってくれ」だが、アメリカは「買うべきだ」だった。
  • 日本人が外国製品をあまり買わない理由は、日本国内での輸入品の値段がそんなにも下がらないことだ。
  • なるほど、日本の流通機構には問題があって、モノの値段が下がらないようになっていた。
  • 人間にとって自分というものは、一番贅沢なものだ。贅沢ができるようになるまで贅沢はできない。そして、他人のいる人間社会のなかで暮らしていく人間にとって、自分というものは、自分の責任によって管理し、他人に迷惑をかけないというその一点において責任重大なのだ。
  • バブルの時代に一番得をしたのは誰か?それはもちろん若い女だ。日本の男に無駄金が入ったら、これが女につぎ込まれるのは目に見えていた。
  • なんで日本のオヤジたちがああも会社が好きなのかというと、会社以外に他に行くところがないからだ。
  • 自分がないから、自分のために金を使うことが出来ない。
  • 文化とは結局金の使い方なのだ。

○第三章「きみのいる世の中」

  • ホワイトカラーがエリートだったというのは、彼らがみな大学出だったからだ。ブルーカラーがエリートじゃなかったのは彼らが大学出ではなかったからだ。ブルーカラーの労働者とホワイトカラーのサラリーマンの間に身分の差のようなものがあったのは、この二つが出世できない人間と出世を当然の前提とする人間に別れていたからなのだが、そんなもんだから、この二つの間には、ちゃんと給与の差というものもあった。ー1970年代の前半には、既に高卒と大卒の間で、生涯獲得賃金の差はなくなってきていたーそれどころか、へたすれば高卒の方がより多くの賃金が獲得できるという方向に逆転していた。
  • ホワイトカラーの優位性はない。プロレタリアの劣悪もない。だとしたら、この二つのものは、会社の従業員という点で、まったく同じものなのである。
  • すべての社員・従業員は、平等に将来の経営陣への参加という可能性を持っている。ーだからどうなるか。答えはひとつしかない。すべての社員にこの会社はどうあるべきか?と考える義務がある、である。
  • 資本主義の終末状況は、資本主義に対して参加資格のないサラリーマンが進んで参加するということをしなければ、おそらく、乗り切ることなんかできないのだ。

○第四章「すべては産業革命に始まる」

  • 綿織物先進国(インド)からの安い輸入品が入ってきていたから、イギリスの綿織物業者は、自国製品のコストダウンに躍起になるしかなかった。織物機械の発明ー機械化による大量生産=産業革命の必要は、ここにあったのである。

○第五章「「市民たち」は、どこから来てどこへ行くか」

  • 普通選挙の最大の課題は、国民は選ぶ権利だけは手に入れたが、選ぶべき代表を十分に持てなかったということにある。

○第六章「最も古いエゴイスト」

  • 人間は遠い昔の自給自足こそが正しいという善の論理に縛られ過ぎて、自給自足の実践とかいう、へんな哲学的な間違いをしでかしてしまうのだ。

■読後感
資本主義という言葉の意味、一体どれだけの人が説明できるだろうか。資本家と労働者、経営者と労働者などと言われてきたが、本書では本質を「金を貸す人と金を借りる人がいる社会」と定義している。それは資本主義ならではのダイナミズムを表していないように思われるかもしれない。しかしさまざまなエネルギーの源をたどると、このシンプルな行為に行き着く。
経済活動は、モノやサービスの循環系とお金の循環系が対になって並流している。これらは両輪をなすもので、一方がおかしくなれば他方もまた然りである。国民総生産が550兆円でほぼ変わらない水準であるとして、一方金融資産が1400兆円といつの間にか大きく膨れ上がっているのが現状だ。つまり、お金の循環系が大いに弛んでしまい、対の機能を果たすにはあり余りすぎてしまっている。
そして銀行の金は国債に向かい(700兆円)、労働の循環系に乗れない人々は、低賃金と借金に依存している。あるいみでは国債依存型の財政がなんとか銀行を行き永らえさせているということになる。