マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』早川書房、2010年5月
これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
- 作者: マイケル・サンデル,Michael J. Sandel,鬼澤忍
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/05/22
- メディア: 単行本
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○第一章「正しいことをする」
- われわれの議論のいくつかには、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の涵養といったことが何を意味するのかの見解の相違が現れている。たとえば、正義と権利、義務と同意、名誉と美徳、道徳と法といった理念である。この本には、アリストテレス、イマヌエル・カント、ジョン・スチュアート・ミル、ジョン・ロールズといった人々が登場する。
・救命ボートの事例
○第五章「重要なのは動機−イマヌエル・カント」
- カントは、道徳とは幸福やその他の目的を最大化するためのものでなく、人格そのものを究極目的として尊重することだと論じ、功利主義を徹底的に批判した。カントによれば、ある行動が道徳的かどうかは、その行動がもたらす結果ではなく、その行動を起こす意図で決まるという。重要なのは、何らかの不純な動機のためではなく、そうすることが正しいからという理由で正しい行動をとることだ。
- カントとロールズにとって、正しさは善に優先する。人間の義務と権利を定義する正義の原理は、善良な生活をめぐって対立する構想のすべてに中立でなければならない。道徳法則に到達するためには、偶発的な利害や目的を捨象しなければならないと、カントは主張する。ロールズの持論では、正義について考えるためには、特定の目的、愛着、善の構想を脇においておかなければならない。
- 正義に対するこのような考え方は、アリストテレスの考え方と相容れない。彼は、正義の原理は善良な生活に関して中立であるとも、あるべきだとも考えていない。逆に、正しい国政の目的の一つは、よい国民を育成し、よい人格を培うことにあると主張する。善の意味について熟考せずして、正義について熟考することはできないと彼は考える。その善とは、社会が割り当てる地位、名誉、権利、機会のことだ。
- アリストテレスの正義についての考え方をカントとロールズが拒む理由の一つは、自由のはいる余地がないと考えるからだ。善い人格を涵養したり善良な生活についての特定の考え方を支持したりするしようとする国政は、一部のひとの価値観を他の人たちに押し付ける恐れがある。自由で独立した、みずから目的を選べる自己としての人間を尊重していない。
- この探求の旅を通じて、われわれは正義に対する三つの考え方を探ってきた。第一の考え方では、正義は功利性や福利を最大限に追求することー最大多数の最大幸福−を意味する。第二の考え方では、正義は選択の自由の尊重を意味する−自由市場で人々がおこなう現実の選択(リバタリアンの見解)であれ、平等な原初状態において人々が行うはずの仮説的選択(リベラルな平等主義者の見解)であれ。第三の考え方では、正義には美徳を涵養することと共通善について判断することが含まれる。もうお分かりだと思うが、私が支持する見解は、第三の考え方に属している。
- 功利主義的な考え方には欠点が二つある。一つ目は、正義と権利を原理ではなく計算の対象としていることだ。二つ目は、人間のあらゆる善をたった一つの統一した価値基準にあてはめ、平らにならして、個々の質的な違いを考慮しないことだ。
- 自由に基づく議論は一つ目の問題を解決するが、二つ目の問題は解決しない。そうした理論は権利を真剣に受け止め、正義は単なる計算以上のものだと強く主張する。
- 自由に基づくそうした理論によれば、われわれの追求する目的の道徳的価値も、われわれが送る生活の意味や意義も、われわれがが共有する共通の生の質や特性も、すべては正義の領域を越えたところにあるのだ。
- 私にはこれは間違っていると思える。公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化を作り出さなくてはならない。
これまでの経年的な哲学・社会思想史に対してサンデル教授が行ったことは、そうした思想家たちが現実の問題を前にどのような判断を下し、それがどのような意味を持つのかわれわれ自身が考える、というところにある。
これをサンデル教授は、対話という形で学生に投げ掛けるが、この対話こそは最終章でいうところの共通善(これは絶えず変わるものでもある)を産み出すための唯一の手段であり、連帯意識のあるコミュニティでしか実現できないものでもある。
ただし、これはたとえば制度化といった手法では困難な道でもある。こうした共通善をもとめる態度を醸成するのは家庭や学校でまず行われなければ厳しいとも言えるだろう。