荒俣宏監修『知識人99人の死に方』角川ソフィア文庫、2000年10月

知識人99人の死に方 (角川ソフィア文庫)

知識人99人の死に方 (角川ソフィア文庫)

■内容【個人的評価:★−−−−】
この書では、作家を中心に知識人と言われる人々99人をとりあげ、その最期をどう迎えたかということをテーマにしています。


◇死に準備するとは

  • モンテーニュは言った「われわれが準備するのは死に対してではない。死はあまりにもつかの間のできごとである。われわれは死の準備に対して準備するのだ」。(10ページ)

■コメント「死そのものは一瞬のできごとであって、そのことについて人間が何らかの制御を行うことはできない。人間ができることは、自分がいつかは死ぬんだということを意識し、死にゆく自分を想念してそれに対して何らかの準備を行うということ。」


柳田国男の最期:静かな死

  • 柳田国男民俗学者)]「柳田先生はおなくなりになる前日まで実にしっかりしていらっしゃった。食事の時はちゃんと正座をされ、ついに一度も人手をわずらわされなかった。それが前日はばかりから床へお帰りになると、くずれるようにおたおれになった。「くずれるように」というのは、誇張ではない。燃えたものが灰になっても、灰のままその形を保っていることがある。あれがくずれる時のように床の上にパサッとたおれてしまわれ、再び起き上がられなかった」〔柳田国男先生と国語学金田一春彦〕(65ページ)

■コメント「こうした死に方もあるのかな、と。スイッチが切れるように亡くなるということは、当たり前のように見えて非常に珍しいケースだと思う。」


◇死を考え続け、そして忘れる

  • 梅原龍三郎]「年をとってから、よく死ぬことを考え、どうやってうまく死のうか、と、そればかり考えていたが、近頃は死ぬことも忘れてしまったようだ」と知人に笑いながら語ったこともあった。(70ページ)

■コメント「自分に起こるさまざまなことを自分の意思で制御するという発想は、とくに老年になればなるほど通用しなくなる。しかしながら、体が弱ってくれば、あらゆるものが曖昧としたものとなり、恬淡として受け入れられるようになるような気はする。」


◇死は予期せざるもの

  • 中上健次]「これまで肉体に対して、過剰な自信があった。手入れしなくても、いつまでも健康でいてくれるもんだという。それは僕の文学にも見える。……僕は谷崎潤一郎を念頭に置いて、彼のような老年の文学期が来ると思っていた。年齢的に、まだ大丈夫だと思っていた。そんな自分が、歯がゆい」〔朝日新聞H4.6.30〕(139ページ)

■コメント「死が目の前にあると思っていたら後ろから迫っていたという言葉を思い出させる。肉体的にいかに頑強に見えても、それが死を遠ざけるものかというとそうではない。明確な意識を持っている状態における死はつらいものだろう。しかし現実にそうした形で直面する人もとても多いと思われるが、そうした状態にあっても、現実としての死ではなく、やはり概念としての死に対して準備するのだということなのではないか。」


◇延命装置につながれた生

  • 寺山修司]そのときの寺山は、すでに助かる見込みがないのに延命装置を体のあちこちにつけたスパゲティ状態だった。現在だったら、無駄な延命措置を続けたことに非難が集中したかもしれない。(189ページ)

■コメント「こうしたことについては、さまざまな見方ができると思うが、快方が見込まれ、それに向かってのプロセスということであれば別だが・・・。人間の命は非常に重いものだが、その尊厳ということがある。少なくとも他人がそうした状態におくことを決定する、ということが許されるのかどうか。」

■読後感
 結論から言うと、監修者本人も書いているとおり、これは不十分な作品ではないかと思います。なぜなら、それぞれのエピソードにおいて語られなければならないのは最期またはそれに向けてご本人の感じ方や思いであるべきですが、一番精力的に仕事をしていた時期の内容が重く書かれており、かつほぼ三人称で、さらにはジャーナリスティックに語られてしまっているためです。
 これがなぜ欠点かというと、この本を読む人の多くは、他人事としてではなく自分事として死にどう対峙するか、より正確に言えば、この本の序文で荒俣さん自身が書いているように、どう「死の準備に対して準備する」(モンテーニュ)のかについてヒントを求めているからです。(まだ、眼を通していませんが、この書でもよく引かれている山田風太郎『人間臨終図巻』はどうなのでしょうね。底本にしているくらいだから同じかな。風太郎自身は、飽くまでも人間は退化に向かっていくという人間観を持っていましたね。)