アマルティア・セン(2002)『貧困の克服:アジア発展の鍵は何か』集英社新書
- 作者: アマルティアセン,Amartya Sen,大石りら
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2002/01
- メディア: 新書
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◇経済成長に先立って行われた東アジアにおける人間的発展
- まず最初に注目しなければいけないのは、この戦略−「東アジアの戦略」と呼んでもよいもの−が、初期の段階から人間的発展を目指し、人間の基本的な潜在能力の拡大を主眼とすることに直接貢献している事実です。その戦略は二つの大きな効果をもたらします.一つは、たとえそれが経済や工業の拡大に影響を与えなくても、識字能力の拡大、平均寿命の伸長、病気による死亡率の低下などによって、生活の質の向上に貢献できるのです。この効果をまず認識すべきでしょう。なぜなら、公共政策の究極の目標は、豊かな人生と自由の拡大だからです。さらに、第二の効果も存在します。基礎教育、医療などのかたちをとる人間的発展を実現することは、経済や工業の発展に拍車をかけて、その効率を改善しながら市場経済の規模を拡大します。そしてまた、そのことが再び生活の質の向上へとつながります。(28ページ)
◇アジアにおける経済成長と政治体制の関係性
◇もっとも重要な「人権」の考え方
- 最も一般的には、人権の概念は私たちに共通の人間性を基盤として形成されています。そうした人権はある国の市民権を持っている、あるいは、ある国家の国民であることから導き出されたわけではなく、人間のエンタイトルメント(人間として請求できるあらゆる権利)とみなされます.ですから人権は、たとえばアメリカ国民またはフランス国民であるというような、その国の憲法によって創造され、特定の人々だけに保障される権利とはちがいます。例をあげるならば、「人は拷問にかけられるべきではない」という人権は、その人がいずれの国民であるかには影響を受けず、したがって、その国、あるいは他のどの国の政府が、こうして欲しいと望むこととはかかわりなく存在します。(96ページ)
◇二十世紀で最も大きな成果−民主主義の台頭−
- 物事が順調に運んでいる場合には、民主主義の保護的な役割が切望されることはあまりないかもしれません。しかし、何らかの理由で事態が大混乱に陥った時にこそ、民主主義の保護的役割はその真価を発揮してくれるものなのです。(52ページ)
- 二十世紀は数々の発展を成し遂げました.しかし、そのなかで最も際立っているのは、民主主義の台頭であると迷わず言い切ることができるでしょう。この結論はそれ以外の出来事の重要性を否定するものではありません。しかしながら、もしも遠い将来に人々が二十世紀に起こったことを振り返るならば、その人々もまた迷うことなく最高の統治形態である民主主義の出現こそ、二十世紀の最もすばらしい発展であると考えることでしょう。(102ページ)
- 民主主義には、さらにたくさんのすぐれた長所が存在しています。そのなかには、次の三つも含まれています。(1)人間生活における自由と人々の政治参加にとって、民主主義が持つ本質的重要性.(2)政府にその国家義務と説明責任を認識させるための政治的インセンティヴを高める民主主義の手段的重要性.そして、(3)価値観の形成、または、欲求、権利、および義務などの基本的概念について理解を生み出す民主主義の構成的役割。(122ページ)
◇発展は人間の自由と尊厳を尺度とすべきこと
- 発展とは、一人あたりのGNP(国民総生産)だけではなく、人間の自由と尊厳がもっと拡大されることにもかかわっているのです。人間の尊厳に対する冒涜行為がいつまでも終わらないのは、人がするべきことをしないで、してはいけないことをするからです。(144ページ)
◇従来の政治体制論における西洋/東洋対比の誤り
- 近年の多文化主義論争においては、西洋リベラリズム(自由主義)の擁護者のなかには、政治的多元主義や寛容の精神は西洋のリベラリズムの内部にしか存在しないと主張してはばからない人たちがいますが、それに対してセンは、本書所収の「人権とアジア的価値」で、それらはポスト啓蒙主義のアメリカとヨーロッパだけではなく、多くの異文化の伝統においても見出されるものであると主張して、西洋の眼差しから非寛容な伝統と決めつけられているイスラムの伝統である寛容の精神について論じています。いわゆる「アジア的価値論争」について、センが鋭く指摘しているように、誤った他者理解は誤った自己理解に結びついているものです。(154ページ)
◇人間の行動分析において新古典派経済学に欠けているもの
- 新古典派経済学は、自己の利益の最大化を目指す「ホモ・エコノミクス」を行動論的基礎として想定していますが、センはこの精神的に貧しい利己的な人間像と−彼はこれを「合理的な愚か者」と呼んでいます−その行動の”動機”に批判を加えています。なぜなら、新古典派経済学は、事実を倫理的価値から切り離すために、人間の行動の”動機”というものをあまりに狭く捉えているからです。そして、新古典派経済学は、人間のとる行動の動機の構造をその倫理的動機も含めて、もっと広く捉えなおす必要があると彼は主張しています。彼がこの「合理的な愚か者」のかわりに提案したのは、他者の存在に道徳的関心を持ち、この他者との相互関係を自己の価値観に反映させて行動すること、つまり社会的コミットメントができるような個人です。それによって、経済学が温かい心を再び取り戻すことが可能となり、社会問題や政治問題に経済倫理の視点から取り組むことが可能となるのです。(158ページ)
◇飢饉と政治体制の関係
- 飢鐘は、エンタイトルメント(食料その他の生活必需品の購買力、突然に起こる権利の剥奪からおのれの身を守るなど個々の具体的な能力)が何らかの原因によって−たいていは、自然災害ではなく、民主主義の欠如など政治的原因によることが多い−損なわれた状態において発生することを明らかにしました。このようなエンタイトルメントが損なわれた状態をさして、センは「剥奪」状態と呼んでいます。それは人が人として生きるために必要な最低限の基本的人権が侵害されている状態でもあります。(161ページ)
◇人間の発展において最も基礎となる考え方
- センは、この「潜在能力」の機能の拡大こそ、発展というものの究極的目標であり、それはまた同時に自由の拡大を意味すると述べています。そして、「より多くの自由は人々が自らを助け、そして世界に影響を与える能力を向上させる」と近著”Development as Freedom”(『自由と経済開発』石塚雅彦訳日本経済新聞社)のなかで述べています。(169ページ)
経済学の基本的な思考においては「経済性」以外の人間的動機についてはいったん捨象され、構成員として純粋なホモ・エコノミクスを想定したうえで経済社会がどのように均衡または不均衡に向かうのか、あるいは分配の問題はどうか、などについて研究される。
しかし、セン教授は、本来人間としてめざすものは経済的数量ではなく、人間の潜在能力を発揮することであることに着目し、そのために教育や医療など基本的な部分や、人権の考え方を第一とする民主主義体制が必要であることを主張する。
本来、新古典派経済学への批判ということでは、新古典派経済学の前提に立った上で、その結論が正しくないということを立証すべきであるが、もともとホモ・エコノミクスという仮想の存在を前提とした経済学のカバーできる範囲はそれほど大きいものではなく、当然ながら人間としてめざすべきものという点においても利潤や余暇という点からしか説明することができない。したがって、セン教授の指摘は、根源的な新古典派批判になりうるものではないが、その位置づけがきわめて限定的なものであることを明らかにし、本来目指さなければならない人間トータルの学問へ舵を切ろうとするものであると思われる。
民主主義は決して効率的なものであるとは言えない。しかし、もっとも弱い者を守るという点では大きな力を発揮できる。経済的数量ではなく、誰もが潜在能力を発揮できる社会は民主主義の下ではじめて可能となるものである。