E.J.ホブズボーム(1981)『資本の時代 1848〜1875』みすず書房

資本の時代〈1〉1848‐1875

資本の時代〈1〉1848‐1875

■内容
○第一章「諸民族の春」

  • ルイ・ナポレオンの選出は、普通選挙による民主主義、すなわち革命と同一視されたどの制度でさえ、社会秩序の維持と両立しうるものだということを示していた。不満に満ち満ちている大衆でさえ、「社会の転覆」に献身するような支配者を必ずしも選ぶわけではなかったのである。もっとも、どの経験からすぐにずっと広範な教訓が学びとれたというわけでもなかった。というのは、ルイ・ナポレオン自身がまもなく共和制を廃止し、自分を皇帝にしたからである。それでも彼は、よく管理された普通選挙の利点を決して忘れず、普通選挙を再び導入したのであった。彼は単純な物理的強制力によってではなく、扇動や広報活動。宣伝などの手段、すなわちそれを操るには国家の上部から操作するのが一番容易であるような諸手段によって統治した最初の近代的な国家元首となった。(36ページ)

○第二章「大好況」

  • 資本主義の世界的勝利の時代は、自己礼賛の巨大な新しい儀式である、万国大博覧会によって始まりかつ強調された。万国大博覧会は常に富みと技術の進歩を示す壮麗な記念建造物の中で挙行された−ロンドンの水晶宮(1851年)、ウィーンの円形建築。そのおのおのが、ますます多種多様となっていく工業製品を陳列し、天文学的な数の内外の旅行者を引き寄せた。(46ページ)
  • 1830年代、1840年代は、このことからして危機の時代であった。革命家たちは、この危機が最終的な決着となることを願っていた。実業家達でさえ、この危機が自分たちの産業体系の息の根を止めはしないかと恐れていたのである。こつの理由からこれらの希望も恐怖も根拠のないものであることが明らかとなった。まず第一今に、初期の工業経済が、マルクスをして「画竜天晴」と言わしめた鉄道を−主として利潤を追求する工業経済自身の資本蓄積活動の圧力の結果一発明したことが挙げられる。第二には、−そして部分的には「結局において、近代的生産手段に適した交通・伝達の手段だった」鉄道、汽船、電信などによって−資本主義経済の地理的範囲が、その商取引が盛んになるや、突如として拡大されえたということが挙げられる。(47ページ)
  • 科学に基づく技術一経済的ならびに軍事的な−にとって、すぐれた初等教育の実際的価値は明白である。1870-1年にプロイセンがフランスを楽々と打ち破ったその少なからぬ理由は、プロイセンの兵士たちのはるかに高い識字率にあった。一方、経済発展がより高度なレベルで必要としたものは、科学的独創性や精徹化一これらは借りてくることができた−であるよりむしろ、科学を把握し巧みに扱う能力であった。つまり、研究よりむしろ「応用」であった。(59〜60ページ)

○第三章「一体となった世界」

  • 帆船が、その性能を技術的にさほど劇的ではないとはいえ、かなり改良したおかげで、新しい蒸気船にたいして驚くほどよく面目を保ち続けたことである。なるほど、世界の輸送力のうちに蒸気船が占める率は、1840年における14%から1870年における49%ヘと、著しく増加していたが、帆船がなおわずかながらリードを保っていた。1870年代および1880年代になってようやく帆船が競争から脱落したのである。(1880年代末までには、世界の輸送力に占める帆船の割合は、25%に減少した。(80ページ)
  • すでに示唆したように、主要な二種類の経済変動が1840年代の世界の運命に影響を及ぼした。作物と家畜の出来・不出来に起因する旧来の農業循環、そして資本主義経済メカニズムの本質的な一部をなす新しい「景気循環」この二つである。1840年代には前者がまだ世界で優位に立っていたが、その影響は全地球的というよりはむしろ地域的な傾向を持つものであった。・・・工業化をなしとげた経済は、少なくともナポレオン戦争終結時から、すでに景気循環に支配されていた。しかし、この影響が及んだのは、実際にはイギリスおよびおそらくベルギー、そして国際体系に連動している他の諸経済の小部門のみであった。・・・1848年以降、・・・景気循環型の恐慌が真に世界的規模のものとなった。ニューヨークの銀行倒産とともに始まった1857年のそれは、おそらく近代的な型の最初の世界不況であったろう。(93ページ)

○第四章「紛争と戦争」

  • ・・・1860年代は流血の十年だったのである。歴史上この時代を、相対的にかくも血なまぐさくしたものは何であったろうか。第一に、世界的な資本主義の拡大のプロセスそのものであり、それが非西欧世界の緊張を増大させ、また工業世界の野心を増大させ、またどのプロセスから生じる直接・間接の紛争をも増大させたのであった。・・・この時代を血なまぐさくした理由の第二は、われわれが見てきたように、−とくにヨーロッパでは−戦争が、政府のとるべき政策の通常の手段として再び登場したことであった。・・・しかも第三に、これらの戦争は、いまや資本主義の新しい技術を用いて行なうことが出来たのだった。・・・独特の無法ぶりをさらけ出したクリミア戦争は、すでに利用可能であった技術を適切に用いるごとに失敗したが、1860年代の戦争は、すでに兵員や物資の動員・輸送に効果的に鉄道を使い、迅速な情報伝達に電信を役立て、また装甲軍艦とそれに付随する装甲貫通銃砲を開発し、ガットリング機関銃(1861年)や、近代的な爆薬−1861年にダイナマイトが発明された−もふくめた、大量単産による火器を用いることが出来た。(110〜111ページ)

○第五章「諸国民の形成」

  • 事実、新しい民族国家にとっては、こうした教育施設は決定的な重要性を持っていた。というのは、それを通じてのみ、「国語」は、現実に人々の書き言葉または、話し言葉−少なくともいくつかの用途のための−となりえていたからである。(135ページ)

○第六章「民主主義の諸勢力

  • ・・・実際には大部分の民衆、たとえば農民は、彼らの参政権が真剣に考慮されていた国々においてすらいまだナショナリズムの影響の外にとどまっていた。また、とりわけ新しい労働者階級は、少なくとも理論上は国民的な連帯よりも、国際的な階級的利害を上におく運動におもむくことに急であった。いずれにしても、支配階級の観点からすれば、重要だったのは、「大衆」が何を信じている力、はさておき、彼らの信念が今や政治において影響を持ち始めたという事実である。(140ページ)

○第七章「敗北者たち」

  • そうした植民地以外の人々は、抵抗策かあるいは協調ないし譲歩策かまた心底からの「西欧化」かそれとも自らの文化や制度は失うことなく西欧の科学と技術の獲得は可能とさせるような一種の改革か、そのいずれを取るかに分れた。全般的に見てアメリカ大陸におけるヨーロッパ諸国の旧植民地は寸西欧を無条件に模倣することを選んだ。・・・中国とエジプトの事例は、それぞれ方法は違っていたが、この第二の選択の典型である。二つとも古代文明と非ヨーロッパ的文化に基礎をおいた独立国で、西欧の貿易と金融の浸透によってその七台を掘り崩されf西欧の陸海軍に抵抗する力のない国であった。彼らにたいして差し向けられた軍事力はたいしたものではなかったのだが。(186ページ)

○第八章「勝利者たち」

  • すべての非ヨーロッパ諸国の中で西洋に立ち向かい、これをそれと同じ手を使って打ち破ることに成功したのは、ただ一国のみであった。同時代の人々には少々驚きであったが、これは日本であった。当時の人々にとって日本は、すべての発展せる諸国の中で一番知られていない国であったろう。・・・半世紀のうちに日本が大きな戦争において独力でヨーロッパの一強国を破るほどの大国になろうとは、また、四分の三世紀以内にイギリス海軍と競合するほどの力になろうとは、ほとんど考えられないことであった。・・・
  • ・・・これらの歴史家たちは、日本について、文化伝統は全く異なるものの、その社会構造は多くの点で西洋と驚くほど類似していたという事実を指摘してきた。・・・それでも、貴族階級(サムライ)の都市への集住が増加するにつれ、彼らはいよいよ非農業人口に依存することになった。そして外国との交易からは切り離された閉鎖的な国家経済の体系だった発展が、国内市場の形成に不可欠な、また政府当局と密接に結び付いた、一群の企業家を産み出した。・・・
  • 確かなことは、他の多くの非ヨーロッパ諸国に比べて、日本の方がいっそう進んで西洋を模倣しようとし、また模倣する能力があったという事実である。・・・日本のエリート達は、長い歴史の流れの中で征服や服従の危険に直面した多くの国と同じ立場に日本がおかれていることを承知していた。日本は世界に通用する帝国ではなく、潜在的な「国民」に過ぎなかった。しかし同時に日本は、十九世紀の経済に必要な技術やその他の能力および構造を持ち合わせていた。さらにおそらくいっそう重要なことは、日本のエリート達には、社会全体の動きを統御しうる国家機構と社会的構造とがあたえられていたことである。消極的な抵抗ないし社会的崩壊あるいは革命、これらのどの危険を冒すごともなく、上から一つの国を再編成することは、極めて困難なものである。日本の支配者は突然の、また徹底的ではあるが統制のきいた「西洋化」を断行するうえで、伝統的な社会的従順さのメカニズムを動員できるという、歴史上例外的な立場にあった。そこでは散発的な侍の意義申し立てや農民反乱以外には大きな抵抗は生じなかったのである。
  • 西洋への対面という問題が何十年かの間-1830年代以降は確実に−日本人の心を捉えてはなさなかった。そして、第一次アヘン戦争(1839-42)でのイギリスの中国に対する勝利は寸西洋式の方法による成果とその可能性とを明確に示した。・・・西洋の適切な技術を採用すること、国民的な自己主張の意志を復活させること、この両方による改革の必要性が、教養ある当局者達と知識人達との間で熱っぽく論議された。
  • しかし、こうした改革の必要性を1868年の「明治維新」つまり徹底的な「上からの革命」ヘと転じさせたものは、将軍家の官僚的な軍事体制が危機の対処に明らかに失敗したことであった。・・・官僚制がその無様な無力を露呈し、将軍派内部で重役たちの党派闘争が行なわれていた間に、第二次アヘン戦争(1857-8年)で中国が再び敗北したことは西洋に対する日本の弱さを強く意識させた。
  • ・・・日本ではブルジョアジーは、ただ実業家や企業家層の存在が、西洋に由来する資本主義経済をどの国で軌道に乗せるのを可能ならしめたという意味においてのみ、一つの役割を演じたに過ぎない。
  • 第二次世界大戦の後まで、技術的に、日本人は西洋の商品のより安っぽい模倣品を生産することしかできないという俗信が白人神話の一要素をなしていた。しかし、すでに目の肥えた観察者達一主にアメリカ人一も存在し、日本の農業の驚くべき効率、日本の職人の技能、日本の兵士達の潜在的能力に注目していた。(209〜219ページ)

○第九章「変わりゆく社会」

  • アナーキズムは、工業化以前の過去の、現在にたいする反抗であるとどうじにその申し子であった。それは伝統を拒絶したが、思想的にも運動においても直観的また自然発生的な性質のために、反ユダヤ主義や、より一般的な外国人嫌いのようないくつかの伝統的な要素を維持−おそらくいっそう強調しさえして−するごとになった。プルードンバクーニンの場合にも、この両方がみられる。同時にアナーキズムは、宗教と境界を激しく憎み、科学や技術を含めた進歩の大義や、理性の、そしておそらくとりわけ「啓蒙」と教育の大義とを歓呼して迎えた。・・・アナーキズムが、ただひとつ提示しなかったものは、未来であった。未来に関しては、ただ革命の後に可能になるということ以外には言うべきごとはなにもなかったのだった。(230ページ)