E.J.ホブズボーム(1981)『資本の時代 1848〜1875』みすず書房

資本の時代〈2〉1848‐1875

資本の時代〈2〉1848‐1875

■内容
○第十章「土地」

  • 資本主義経済の成長は大量の需要によって農業を変えた。だから、どの時代に、農業用地が増加したこと、また、堆産性の改善によって、当然産出量が非常に増大したことは驚くべきことではない。統計を利用できる範囲で世界全体を見ると、1840年から1880年までに作付面積は約5億エーカーから7億5000万エーカーに、すなわち50%ほど増加した。どの増加分の半分は、どの期間に農業用地が三倍に増えたアメリカにおける増加であった。」(252〜3ページ)

○第十一章「人間の移動」

  • 人口移動と工業化は同時に進行する。世界的な近代経済の発展が人々の大規模な移動を要求し、新しく改良された交通機関によってそのことが技術的に容易に、そしてより安価になったからである。そして、もちろんのこと、近代経済の世界的な発展がさらにより多くの人口を維持することを可能にしたからである。」(274ページ)
  • 大衆の日帰り旅行は、汽船遊覧を除けば、1850年代に、もっと正確に言えば、1851年の大博覧会によって産み出されたものである。大博覧会に出品された逸品を見ようと非常に多数の人々がロンドンを訪れた。(287〜8ページ)

○第十二章「都市、工業、労働者階級」

  • 工業化以前に有名であった古い都市のほとんどが、新しい種類の生産を引きつけなかった。したがって、典型的な新しい工業地帯は、いくつかの村落が融合して小さな町になり、さらにそれが大きな町に発展するといった形態をとって徐々に形成されたのである。(297ページ)

○第十三章「ブルジョアの世界」

  • ブルジョアジーの小春日和のような時代に、小説家E、M・フオースターは、次のように書いている。「配当が入ると、高遠な考えが昂揚してきた。」哲学者にとって最高の巡り合わせは、ジヨルジ・ルカーチのように銀行家の息子として生まれることであった。・・・社会は、学問を尊重するとはいえ、学問の権威にたいして称賛以上の何か具体的なもので救けるということは考えられなかったからである。(329ページ)

○第十四章「科学、宗教、イデオロギー

  • 進化論は自然科学を人文・社会科学に結び付けた。・・・経済学と数学との結合は(A、A・クールノーとL・ワルラスという三人のフランス人によって)今や緊密で直接的なものとなった。統計学の社会現象への適用はすでに十分に進展しており、統計学の自然科学への適用を促したほどであった。・・・国際統計会議は1853年以降定期的に開催された。(370〜1ページ)

○第十五章「芸術」

  • ロシアにとっては、この時代は輝かしい成果をおさめた時代である。自然科学、社会科学は言うまでもなく、音楽、とりわけ文学においても優れた作品が産み出された。ドストエフスキートルストイ、チヤイコフスキー、ムソルグスキー、それに古典的帝室バレエがそろって最盛期に入った1870年代のごときは、それに匹敵する時代を見いだすことが出来ないほどである。すでに見たように、フランスとイギリスは、きわめてすぐれた水準を維持していた。後者は主として散文文学で、前者は絵画と詩においてすぐれていた。アメリカ合衆国は、視覚芸術やインテリ向けの音楽ではまだ目立たなかったが、文学ではその地位を確立しようとしていた。・・・逆に、ドイツ語圏およびイタリアという、芸術の二大中心地から産み出される作品の質は、明白に、ある点ではみごとに低下した。(393〜4ページ)

○第十六章「帰結」

  • 自由主義が凱歌を迎えた時代は、革命の挫折に始まり、長期化した不況とともに終わった。・・・この時代は絶頂を極めて幕を閉じたとも言えないし、急激な下降によって終結したとも言えない。見分けにくい分水嶺が、1871年から1879年の間のいずれかの年に存在したのである。(429ページ)
  • 資本主義経済は次の四点において著しい変化をみせた。第一に、第一次産業革命の産み出した発明や方法に規定されない、新しい技術の時代に入った。・・・第二に、国内消費市場を支柱とする経済にしだいに転換した。・・・第三に、・・・自由主義に続く時代は、イギリス、ドイツ、北アメリカといった相対立する国民経済の間で、国際競争が展開された時代である。・・・発展と従属とが背中合わせになった新たな形態が、1930年代の不況に至る間、ほんの短い中断を伴っただけで、持続的に展開した。世界経済上の第四の転換はこれである。(430〜2ページ)