曽野綾子『人間にとって成熟とは何か』幻冬舎新書、2013年7月

■内容【個人的評価:★★★−−】

◇道徳を実現した国家の「退屈さ」

  • 私はニュージーランド政府が、外国のマスコミに見せたがる完壁に道徳的な国の姿をよく理解した。この国の姿は、世界中が、こうなるといいと思う理想の形態を既に取っていた。しかし私の心の五パーセントか、十パーセントほどの部分が、こういう国はほんとうに退屈だと思ったことも告白しなければならない。改めて言うが、私は泥棒も嫌だ。不公平な身分格差のある社会も嫌いだ。しかし、そもそも矛盾を含んでいる人間の心には、そうでない部分もあるのである。(17ページ)


◇威張った人間の裏側には常に不安がある

  • 威張って、不遜で、自己中心的で、評判を恐れ、称賛を常に求め、しかも現実の行動としては他罰的な人というのは、世間の人が率先してお辞儀をする名門だという評判があろうと、学歴がよかろうと、出世街道をまっしぐらに走っていようと、既に地位や財産を築いているように見えようと、実は不安の塊なのである。(47ページ)


◇絆を失う前に想像力を働かせてみては

  • 今まで、自分一人で気ままに生きて来て、絆の大切さが今回初めてわかったという人は、お金と日本のインフラに頼って暮らしていただけなのだ。身近の誰かが亡くなって初めて、自分の心の中に、空虚な穴が空いたように感じた、寂しかった、かわいそうだった、ということなのかもしれないが、失われてみなければ、その大切さがわからないというのは、人間として想像力が貧しい証拠だと言わねばならない。(52〜53ページ)


◇介護の目的とは

  • 昔の介護は、基本的に自宅で家族がしたものだった。嫁さんはこっそり手を抜き、息子は忙しくてしかもぶきっちょ、かわいい孫たちはおじいちゃんおばあちゃんに優しくはしたいのだが、咳き込んだらどうしてあげたらいいのか、正確には知らない。しかし皆が手さぐりでやって来て、それぞれの家庭で年寄りの最期を見送つたのである。介護というものは、そういうものだ。つまり食事と排泄と体をきれいにすることが実務だが、そのほかに大切なことは、病人や老人を楽しくすることだったはずだ。(63ページ)


◇権利行使に地道をあげるあさましさ

  • 最近、私の周囲を見回すと、実にもらうことに平気な人が多くなった。「もらえば得じゃない」とか「もらわなきゃ損よ」とか、そういう言葉をよく聞くようになったのである。「介護もどんどん受けたらいいじゃないの。介護保険料を払ってるんだから、もらわなきゃ損よ」とはっきり言う。(86ページ)


◇品を保つとは

  • 品を保つということは、一人で人生を戦うことなのだろう。それは別にお高く止まる態度を取るということではない。自分を失わずに、誰とでも穏やかに心を開いて会話ができ、相手と同感するところと、拒否すべき点とを明確に見極め、その中にあって決して流されないことである。この姿勢を保つには、その人自身が、川の流れの中に立つ杭のようでなければならない。この比轍は決してすてきな光景ではないのだが、私は川の中の杭という存在に深い尊敬を持っているのである。(100ページ)


◇西欧と日本の美意識の違い

  • 西欧人の正式な服装は、服も帽子も手袋もハンドバッグも基本としては同系色で揃えようとする。しかし歌舞伎の衣装や能衣装は全く違う。日本の伝統は対照的な色使いを好む。反対色の冒険を堂々とし続け、その中で日本固有の絢欄たる美も動きも示しているのである。(171ページ)


◇スポーツに見られる非人道的な側面

  • 私はマラソンや重量挙げなど、未開な時代の人間生活を懐かしむような競技を、かなり嫌いになったのは、アフリカの生活を見たからだ。体に悪いことはするな、とスポーツ界はどうして言わないのだろう。重量挙げも、マラソンも、私から見ると寿命を縮める競技で、スポーツ界はどうしてこういう非人道的なことを見逃しているのだろう、と不思議に思うのだ。(207ページ)


◇人間は最も大切な「選択の自由」を持て余している

  • 私が最近感じているのは、そうした結果論ではない。私が問題として眺めてみたいのは、人聞はどのようにして自分の人生を決めようとしているのか、ということだ。現代は個人が選択の自由をとことん得ている時代だと見られているが、実は個人はその自由を評価してもいないし行使してもいないのではないか、と思うことがよくあるのだ。(224ページ)

■読後感
作者が日々感じざるを得ない「人間が成熟するとは?」についての疑問をエッセイとしてまとめたもの。人間はもともと善悪の両面を兼ね備えているという見地から、そうした中にあって威張らず、分をわきまえ、浅ましいことをせず、日ごろから絆を大切にし、そして自分で考え判断することの大切さを説いている。