上野千鶴子『生き延びるための思想』岩波現代文庫、2012年10月
- 作者: 上野千鶴子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2012/10/17
- メディア: 文庫
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◇フェミニズムとは「やられたらやりかえせ」の思想ではない
- フェミニズムは女にも力がある、女も戦争に参加できる、と主張する思想のことだろうか?アメリカのフェミニズムは女の男なみの戦闘参加を求めてきた。だが、もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれる、という思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。わたしの考えるフェミニズムは、弱者が弱者のままで、尊重されることを求める思想のことだ。だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採らない。相手から力づくでおしつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じように力づくで相手に自分の言い分をとおそうとすることは矛盾ではないだろうか。フェミニズムにかぎらない。弱者の解放は、「抑圧者に似る」ことではない。(viページ)
◇「生き延びるための思想」の重要性
- 「死ぬため」だけに思想があって、「生き延びるための思想」がなかったことが問題なのだ。「生きるために思想はいらない」と言った哲学者は、人聞は動物のように生きると考えたのだろうか。これを知的怠慢といわずしてなんだろう。・・・ソーシャル・ワーカーで「べてるの家」の創設者である向谷地生良さんは、自傷や自殺念慮の若者に、つらくても、傷ついても、生き延びて北海道浦河の「ぺてるの家」にたどりつきなさい、という。DV被害者のカウンセリングに長年あたってきた心理臨床家の信田さよ子さんは、一刻も早く被害者であることをやめなさい、その場を立ち去りなさい、逃げ延びなさい、とアドバイスする。・・・とどまることと立ち去ること、自爆することと生き延びること、そのどちらが勇気ある選択だろうか。(164〜165ページ)
◇フェミニズムとは弱者が弱者のままで尊重される思想である
◇池田晶子さんの思想について
- (中略)そんな埴谷を論じた池田さんが、あるエッセイの中でこんなことを言った。「生きるために思想はいらない。死ぬために思想はいる」。まあ、「男らしい」考えじゃありません?埴谷のニヒリズムにまるまる染まった女が、聞いたふうな台調を吐いた。わたし、それを読んで、怒り心頭に発したんです。男が言ってりゃあ、ただただ、せせら笑えるんですけどね(笑)。女が言うと許せないんですよ。本当に許せない。(282ページ)
◇「ヒロイズム」はフェミニズムの敵である
◇いわゆる「男女共同参画」はフェミニズムとは対極的な位置にある
- 国策フェミニズム、あるいは男女共同参画フェミニズムといわれるものがありますが、わたしたちは「男女共同参画」という言葉を使いません。少なくともわたしは使いせん。なぜかというと、「男次共同参画」というのは、「男女平等」とりわけ「平等」としう言葉が大嫌いだった当時の政府・財界・与党に配慮して、官僚たちがつくった行政用語だからです。このような男女共同参画フェミニズムの最もわかりやすい指標は、女性の代表性です。つまり、ありとあらゆる集団の中で、人口比にふさわしい女性の比率を達成することがわかりやすい目標になります。競争は必ずヨーイドンと同じスタートラインから出発してゴールインをする、そのように機会均等のはずのものですが、ゴールには必ず勝者と敗者が生まれます。これを優勝劣敗の原理と申します。勝った人は努力と能力があったから勝つことができた。負けた人は努力と能力が足りなかったせいだ。そういう「自己決定・自己責任」の原理です。(333ページ)
◇「当事者主権」は誰にも譲り渡すことのできない至高の権利である
- この世にまだ存在しなかった新しい用語、「当事者主権」という言葉をつくりました。「主権」というのは大変強い言葉です。わたしの運命はわたしが決める、他の誰にも譲り渡すことのできない至高の権利という意味で、この言葉を使いました。では、なぜそういうことを言わなければならないかというと、いわゆる社会的弱者と言われる人々、つまり障害者、女、子ども、高齢者、患者のような人たちは、自分のことを自分で決める権利を奪われてきたからです。(344ページ)
◇この本で言いたかったこと−弱者の戦略−
- 『生き延びるための思想』で、わたしは何を書いたか。弱者が生き延びようとしたときに、弱者は敵と戦うということをしなくてもよい。敵と戦うということはもっと大きな打撃に自分がさらされるだけだからです。強者になろうとする者は、戦いを選ぶかもしれないが、弱者の選択肢はたった一つ、「逃げよ、生き延びよ」なのだ、と書きました。(355ページ)
フェミニズムの第一人者である著者の思想の根本を語った本。
とりわけ弱者に対する視点がどの章をとっても多くのページを割かれており、これこそが著者の思想の骨格をなすものだと改めて認識させられる。