宇沢弘文『経済と人間の旅』日本経済新聞社、2014年11月

経済と人間の旅

経済と人間の旅

■内容【個人的評価:★★★−−】

◇経済学がもたらしてきた結果とは−「人間」を立脚点に据えたきっかけ−

  • 道といえば自動車優先で、人間はおっかなびっくり歩かなりればならない。地元が「もう、いらない」と言っているのに、強権を発動してダムや堤防を無理やりつくって押しつける。そんな「人間不在」の政治、行政の論理ばかりがまかり通る。国民の税金を費やしてである。その結果、固と地方を合わせて六百六十六兆円に及ぶ負債を抱えることになった。この莫大な借金を背負い、何十年にもわたって返済の責務を果たさなければならないのは、子どもたちなのである。昔から「子は宝」といわれてきた。その子どもが大人たちに負債を押しつげられ、つけを払わされる。なんと悲惨なことだろうか。私は経済学者として半世紀を生きてきた。そして、本来は人間の幸せに貢献するはずの経済学が、実はマイナスの役割しか果たしてこなかったのではないかと思うに至り、がく然、とした。経済学は、人間を考えるところから始めなげればいけない。そう確信するようになった。(9ページ)


ゲーテによる国民共有の財産の考え方−社会的共通資本の考え方の原点−

  • 詩だけでなく、ゲーテの考え方や生き方も知った。ゲーテはワイマール公国の宰相を務めたことがあった。その時、国王や貴族の独占物であった芸術作品や学問、庭園などを国民共有の財産として一般に開放した。「公園」はその一例である。ゲーテの考え方はこのとき、私の心に深く刻み込まれた。後年、私が提唱する「社会的共通資本」の考え方はゲーテの思想が参考になっている。(28〜29ページ)


◇ヴェブレンの考え方とこれを経済学的に整理したケインズ−宇沢経済学の基本的立脚点−

  • 私はもともとソースティン・ヴェブレンの考え方にひかれていた。ヴェブレンは経済学の歴史のなかで、最も卓越した業績を残した経済学者の一人である。すぐれた分析、透徹した直観、深い洞察で経済学に新しい機軸を打ち出した。その後、思想的独創性でヴェブレンを超える経済学者は出ていない。その思想を経済学的に整理したのが、ケインズであると言ってよい。ケインズの『一般理論」の意味するところは、簡単に言ってしまうと、資本主義は非常に不安定なので政府が何かしなければ大量失業か、非常に危険なインフレを生み出す。つまり、安定的な経済成長を実現するのは非常に難しいという点にある。それを明確にモデルで示したのがロイ・ハロッドである。『一般理論』を動学化して経済動学という分野を開拓した。そして、資本主義経済のもとで安定的な経済成長を実現するのは、ナイフの刃の上を歩くようなものだと結論づけた。言葉をかえて言うと、ケインズは金融制度の不安定さが資本主義全体を不安定にしていると考えた。投機的な取引はあぶくのようなもので、経済全体があぶくに巻き込まれると、経済は崩壊してしまう−というのが「一般理論』の骨子なのである。また、ケインズは財政・金融政策をうまく使えば資本主義のもとでも安定的な経済成長ができるという考え方も提示した。戦後、ケインズ主義政策というとこちらを言うことが多い。サミュエルソンの加速度原理の考え方もその流れの中に位置づけられる。それはともかく、こうした『一般理論』のエッセンスは、ヴェブレンが〇四年に発表した『営利企業の理論』の中にある。ケインズに先駆けること約三十年である。ヴェブレンの経済理論は難解とされるが、要するに、経済行動は制度的諸条件によって規定される一方、行った経済行動の結果、制度的諸条件もまた変化する。経済は進化論的視点から見なければならない。ヴェブレンの経済学がよく進化論的経済学といわれるゆえんである。(77〜78ページ)


◇下村治さんが行ったケインズ理論の動学化とその政策実現

  • 下村さんはそうした縁で『一般理論』にかかわり、発展、動学化した。『一般理論』は静学的で資本蓄積、技術進歩といった概念はあまり入っていなかった。それを取り入れて、投資が加速度的に効果を生み出すという有名な加速度原理を発見した。投資によって機械や生産設備をつくると産業が活発になり、労働者の所得を増やして消費を増大させる。消費が増大して商品が売れれば、企業家はさらに投資を増大させる−という理論である。サミュエルソンも同じような論文を五〇年代初めに書いたが、下村さんの論文はすぐれて実証的で政策的な面に焦点が置かれていた。池田勇人首相の所得倍増計画をつくったのは、下村さんだが、その原点は加速度原理であった。下村さんは七〇年代になって突如、ゼロ成長を言い出す。高度成長の担い手が百八十度転換してゼロ成長を言い出したものだから多くの人は驚き、反発した。しかし私は下村さんと議論して、転換というより新しい展開だと思った。日本の将来、子どもたちの世代を考え、このままではだめだという意識を持たれたのではないだろうか。私もちょうどそのころ、自然環境、社会環境を経済理論の中にどう組み込むかという社会的共通資本の概念を考え始めていた。(85〜86ページ)


◇公害問題への取組−経済論理で破壊される社会の典型的な一例−

  • 漁場は漁民みんなでルールをつくり、維持・管理してきた「社会的共通資本」である。そのため自然を美しいままに保ち、聖なるものとして大事にしてきた。ところが、近代化の過程で破壊された。そのとき、一番被害を受けるのは中心になって社会を支えてきた人たちである。美しい自然の中で、地域が築いてきた社会が官僚や大企業によって破壊されてゆく。水俣病がきっかけとなって私は公害問題、環境問題にのめり込んでいった。大学の仕事も家のことも放り出し、公害問題が起きていると聞けば必ず行き、しばらく滞在して現地調査する生活を送った。(89ページ)


昭和天皇からいただいた言葉で目覚める−人間中心の経済学=社会的共通資本(自然資源・社会インフラ・制度資本)−

  • 私は一九八三年、文化功労者になった。文部省で行われた顕彰式の後、宮中で天皇陛下がお茶をくださるという。小さな部屋に案内され、陛下の前で今まで何をしてきたかを順番にお話しする。そのうち私の番になった。私はすっかりあがってしまい、ケインズがどうの、だれがどうしたとか自分でもわけが分からなくなってしまった。すると昭和天皇が身を乗り出され、「キミ。キミは経済、経済と言うけれども、要するに人聞の心が大事だと言いたいんだね」とおっしゃった。私はそのお言葉に電撃的なショックを受け、目がさめた思いがした。経済学はホモ・エコノミクス(経済人)を前提にしている。これは現実の文化的、歴史的、社会的な側面から切り離されて、経済的な計算にのみ基づいて行動する抽象的な存在である。経済学では人間の心を考えるのはタブーとされていた。この問題を天皇陛下はずばり指摘されたのだ。私はそのお言葉に啓発され、経済学の中に人間の心を持ち込まなければいげないと思った。それを具体的な形で定式化したのが社会的共通資本である。ソースティン・ヴェブレンが唱えた制度主義の考え方がその原点にあると言ってよい。あるいは、ワイマール共和国の宰相を務めたゲーテの思想に源流があるとも言える。人間の生活、生存に重要なかかわりを持ち、社会を円滑に機能するために大事な役割を果たす資源、モノ、サービス、あるいは制度を共通の財産として社会的に管理していこうという考え方である。具体的にはまず、土地、大気、海洋、河川、森林、水、土壌といった自然資源がある。二つ目は社会的インフラストラクチャーである。日本では普通、社会資本と言っているが、公共的な交通機関、上下水道、電力・ガス、道路、通信施設などがこれに該当する。三番目として教育、医療、金融、司法、行政など制度資本と言われるものがある。社会を円滑に機能させ、一人ひとりの人間的な尊厳を守るのに必要な制度で、中でも大事なのが教育と医療である。これらの管理は社会的な基準で行われる。それぞれの分野の職業的専門家によって専門的知見に基づき、職業的規律に従って管理・運営される。(104〜105ページ)


◇都市はどうあるべきか−ヴェブレンの思想を受け継いだジェイコブス−

  • ソースティン・ヴェブレンの思想を受け継いだ人の一人に、ジェイン・ジェイコブスという都市計画の専門家がいる。知り合ったのは私が日本に帰って来る少し前で、ベトナム反戦運動を通じてだったが、彼女は一九六一年に『アメリカ大都市の死と生』という本を書いた。二十世紀前半、米国にはどこにでもすばらしい都市があったのになぜ魅力を失ってしまったかを足で調べ、まとめたのがこの本である。彼女は、米国の大都市が死んだのは五〇年代から六〇年代にかけ、ル・コルビジェの「輝げる都市」に代表される近代的な都市計画理論に基づいて都市の再開発が行われたからだと結論づけた。一方で米国の都市の中にはまだ、魅力を備えた都市が数多く残っていることを発見し、それらの都市に共通する四つの特徴を掲げた。その四つとは、1街路は狭く折れ曲がっていて、一つひとつのプロックは短い、2都市の各ブロックには住み慣れた古い建物ができるだけ多く残っているのが好ましい、3商業地区、住居地区などのゾーニングをしてはいけない、4人口密度が低いのは好ましいことではなく、高ければそれだけ活力がある−というものだった。つまり、ジェイコプスは近代的な都市計画理論を真っ向から否定し、人間にとって住みよい街並みはいかにあるべきかを考えた。ヨーロッパでは今、そうしたジェイコブスの思想を実践するかのような運動が広がりつつある。フランス、ドイツ、オランダ、イタリア、スペイン・・・。それぞれ事情も違うし、方法も違うが、目指している先は同じ「人間の回復」である。(124〜125ページ)


◇社会的共通資本の使用便益を社会に還元する流れを作ること

  • 生産手段を私有化することによって、各個人が私的な利益を追求する結果、希少資源の配分がもっとも効率的に行なわれることになるというのが私有制の根拠であった。そのためには、生産過程で制約的となるような生産手段についてすべて私有を認めることが必要となってくる。しかし、希少資源のうち、私有制が技術的に不可能か、あるいは高い費用のかかるものが少なくない。大気、水などの自然資本、また道路、下水道などの社会資本などいわゆる社会共通資本がそれである。しかも、このような社会共通資本の多くは、個々の消費者にも直接影響を与えるものである。したがって、社会共通資本の管理、建設をどのような機構を通じて行なったらよいか、ということが問題となってくる。また、いわゆる公害現象の多くはこのような社会共通資本が生産、消費活動によって減耗、破壊されてゆくものであると考えられる。そこで、公害防止あるいは社会共通資本の破壊防止のために、どのような制度を考えたらよいかということも関連してくるのである。この問題は市場機構を通じては解決できないことは、ピグー以来厚生経済学の指摘するところである。社会共通資本の多くは、道路のように、その使用度が高まれば混雑現象を呈してくる。したがって、効率性という点からも、市場機構は望ましくない結果を生みだす。さらに、どれだけ社会共通資本を使うか、個々の構成員によって異なっているのであって、一般に平等性という点からも所得分配に好ましくない効果をもつものである。・・・結局、社会共通資本の評価は、「政府」の手にゆだねられることになる。「政府」はさらにこのような資本の建設を担当し、管理するという役割を果たすのは当然である。したがって、公害防止のためには、社会資本税あるいは公害税といったかたちでの課税制度が直接規制と並行して行なわれることが、効率、公正、どちらの見地からも望ましいことになるのである。(140〜143ページ)


ケインズ理論の適用の大きな変遷

  • 『一般理論』が考察の対象、としたのは大恐慌ないしはそれに準ずるような状況であったが、戦後には、経済成長を目標として、ケインズ的な政策が積極的に展開されることになった。対外経済、軍事援助、囲内におげる公共投資、福祉的プログラムの拡大を通じて、高い経済成長率を実現するということに重点が置かれるとともに、私的な経済活動の規制、景気安定化のための微調整(ファイン・チューニング)が展開されることになった。ケインズ主義は当初の防衛的な意味を超えて、より積極的に資本主義の発展をはかるという形に使われるようになっていった。この傾向は単にアメリカだけでなく、他の資本主義諸国についても多かれ少なかれ共通してみられる現象であった。このような考え方の前提をなしている理論的枠組みもまた、『一般理論』とはかなり異なった性格をもつようになってきた。『一般理論』が対象としていたのは、大恐慌に典型的にみられるような、市場不均衡過程であったが、戦後のいわゆるケインズ理論は、ジョン・ヒックスによるIS・LM分析という均衡分析の枠組みのなかに閉じ込められたものであって、現実の不均衡過程を的確に記述し、分析できるようなものではなかった。一九六〇年代半ばごろまでの世界の資本主義は、このような均衡分析が適用され得るような平衡状態にあったと考えてもよいが、一九六〇年代の終わりごろから、失業とインフレーションの共存、国際収支の慢性的赤字などという不均衡現象が顕著になるにつれて、ケインズ経済学の現実的妥当性とケインズ政策の効果の有効性に対して、懐疑と批判が生じてきたのも当然のことといえよう。・・・不況対策の名を借りて、土木・建設産業や自動車産業の便益をはかるためにぼう大な公共的資源が自動車道路建設に投下されてきたのはこの典型的な例である。他方、財政支出の規模自体も、予算均衡の原則を貫くというよりは、有効需要のファイン・チューニングという機能を重要視したあまり、政府負債の長期的蓄積の趨勢に対して有効な歯止めを形成することができなくなってきた。(150〜152ページ)


◇ハロッドが示した資本主義社会の不安定性

  • ケインズ理論の発展には、エコノメトリックスとならんでもう一つの領域があった。それは経済動学に関する理論的な展開であり、その第一歩はロイ・ハロッドによって試みられた。ハロッドの考え方は一九四一年に出版された『経済動学序説』に説明されているが、のちにイブシー ・ドーマーによってよりいっそう明確な定式化が行なわれた。企業部門におげる投資活動は一方において有効需要を形成し、国民所得、雇用量を増加させるが、他方では資本蓄積によって国民経済全体の生産能力を大きくする。経済成長に伴う供給能力の増加と、所得上昇に伴う需要の増加、との聞に長期間にわたる平衡が維持され得るであろうか。ハロッドはこの設問に対してつぎのように答える。いま完全雇用が保たれているとすれば、実質国民総生産は年々、人口増加率と技術進歩率との和に等しい率で成長する。これがハロッドの自然成長率である。他方、資本蓄積によって年々どれだけ財・サービスの供給が増加するかというと、それは平均貯蓄性向を資本係数で割ったもの、つまり保証成長率に等しい。均斉的な経済成長が長期にわたって可能、となるためには、この二つの成長率が等しくなければならない。しかし、自然成長率と保証成長率とは一般に等しくならない。そして実際の経済成長経路の均斉成長からの本離は累積的に大きくなる。このようにして、ハロッドは資本主義的な経済成長が極めて不安定な様相となることを示したのであった。(191〜192ページ)


◇新しい世紀の思想の拠り所−リベラリズムの考え方−

  • 新しい「レールム・ノヴァルム」は、二十世紀の世紀末に立つ私たちが直面する問題を「社会主義の弊害と資本主義の幻想」としてとらえ、この二つの経済体制の枠組みを超えて、リベラリズムの思想に基づいて新しい世紀への展望を拓こうとするという意味で、感動的な回勅である。リベラリズムの思想は、一言で言うと、人間の尊厳を保ち、市民的自由を守るということを基本に物事を考え、行動することを意味する。決して政治的権力、経済的富、宗教的権威に屈することなく、一人ひとりが人間的尊厳を失うことなく、それぞれが持っている先天的、後天的な資質を十分に生かし、夢と希望とが実現できるような社会を造り出そうというのが、リベラリズムの立場である。資本主義と社会主義という二十世紀を支配してきた二つの考え方を超えて、リベラリズムの立場を貫き通すのが「制度主義」の考え方である。制度主義というのは、一つの国の置かれている歴史的、社会的、文化的、自然的な諸条件を十分考慮して、すべての国民が人間的尊厳を保ち、市民的自由を守ることができるような制度をつくることを意味する。(263〜264ページ)

■読後感
この本では、前半は宇沢教授の歩みをトレースしている。旧制高校のリベラル・アーツの考え方に影響を受け、その後数学から経済学へと関心の対象を変えていった過程や、アメリカへ渡り研究者たちとの交流が描かれており、当時の息遣いがよく分かる。
また後半はまさに宇沢理論というべき社会的共通資本の概念がよく整理して提示されている。著者のwarm heartがよく伝わってくるとともに、これがセンセーショナルな『自動車の社会的費用』といった著書の出版につながっていたったのだろうと想像できる。この宇沢理論を、さらにcool headで体系化して提示することができれば、これは現代社会の、経済学的のみならず包括的な指針となるのではないか。