豊田正義『DV−殴らずにはいられない男たち』光文社新書、2001年10月

■内容【個人的評価:★★★−−】

◇DV−二度としないと誓っても繰り返される−

  • 「もう二度としない」と誓った。妻はその言葉を信じて彼を許した。しかしそれ以後も暴力は繰り返された。「人間というのは理性のたがが外れると、ほんとに悲しいもんでね。暴力ってほんとに反復するんですよ。だんだん暴言もエスカレートして『おまえなんか、早く死んでしまえ!』とか、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせて、彼女を叩いて叩いてボコボコにしてしまうんです」(11ページ)


◇夫の言い分、妻の言い分

  • (著者から夫へ)「じゃあ、どうしても、理沙さんからの抑圧が本質的な原因だと思うの?」
  • (夫)「うん、そうとしか考えられない。同じ加害者でも、『成長期に抑圧を受けて育った人』と、『妻から抑圧を受けて奇行に走る人』を明確に分けてほしいよ。俺は明らかに後者で、むしろ妻の言動・行為による精神的暴力の被害者なんだ。加害者の従来のイメージは暴君タイプが主流だったけど、新しいカテゴリーとして、妻に支配されつづけた抑圧から逃れるためにキレるタイプに注目してほしい。豊田さん、ぜひ、そのタイプの加害者への理解を促してくださいよ。」
  • (著者から妻へ)「彼のそういう点は、結婚前にわからなかったんですか?」
  • (妻)「わかりませんでした。服装に気を遣わないことは私が気にして、注意して整えてあげれば済むことぐらいに思ってたんです。そうしたら、ちょっと言っただけで、私に支配されてると思い込んじゃって、あんまり怒るから、私も自分を殺して殺して彼のことを大切な人なんだよって示してきたつもりでいたんですけどね。結婚前は威張るたちの人じゃないと思ってたんですけど、『俺を大切にしろ、旦那様なんだぞ』っていう態度が出ちゃって。何しろ家族から愛されるだけ愛されて生きてきた人ですから、そういうふうに自分を尊重するのが当然だみたいな感覚があるんですよ。私ももっともっと持ち上げててあげればよかったんですけど、やっぱり生理的に耐えられないということがありますから」
  • (著者)こういうふうに、和人さんの言い分のほとんどすべてが反証されていった。そして私が感じたのは、あまりに大きなミスマッチである。性格も習慣も生まれ育った環境もぜんぜん違う。まるで水と油だ。唯一の接点は、やはりどちらにとっても「子供」だったというのは十分に納得した。
  • (著者から妻へ)「こういう仮定は無意味かもしれませんけども、お子さんがいなかったら、とっくに別れてますか?」
  • (妻)「ていうか、いっしょになりませんでしたもの。恋人付き合いとかも最初に言われたときに即座に否定したみたいに、恋愛感情はなかったですもの」
  • (著者)私は、彼女には申しわけないが、共感できなかった。たしかに子供思いであることは素晴らしいと思う。しかし夫婦の原点はそこにあるのだろうか。また夫婦の絆を前提としない両親を持った子供は、本当に幸せになるのだろうか。(122〜139ページ)


◇二通りの加害者像

  • 自らの暴力性に向きあう姿勢において、二通りの加害者像に大別できると思う。暴力をやめようと努力しているか、暴力をやめようとせず居直っているか、である。(191ページ)


◇DVを犯罪としてとらえることの功罪

  • (著者)脱暴力のために加害者を支援する前に、暴力を犯罪として認めさせようという声が圧倒的に多いと思うのですが、その点についてはどうお考えですか?
  • (味沢)「DVは犯罪です。やめましょう」という理屈はよくわかるし、その気持ちもよくわかります。それは正論です。けれど、それだけで加害者は減るのでしょうか。もちろん「DVは犯罪です、やめなさい」ということも大切でしょう。しかしそれは、加害者を変容させるために存在する言葉ではなくて、法的責任の因果関係を確認するという意味で必要な言葉だと思います。今度のDV防止法でそれがやっと認知されたことは一歩前進だと思いますけれど、DV加害者が暴力をやめるための支援をする場でその言葉が有効とはさらさら思いません。私は、「こうすればやめられる。どうしてやめられないか考えよう。やめられたらあなたも楽になる」という加害者の利益を前提に話をすすめます。(195ページ)


◇被害者側のカウンセラーが加害者の脱暴力を支援できるか

  • (著者)被害者側に立っているカウンセラーが、加害者に改心を促していくというのは不可能なのでしょうか?
  • (味沢)被害者側に立ったカウンセラーが加害者に接すると、指示的、教導的になり易いのでカウンセリングは困難になるケースも多いのではないでしょうか。多くの被害女性は「夫を変えたい」という意識を持っていて、さんざん努力しているけれど、「夫は変わらなかった」という事実のほうが圧倒的多数ですから、その支援者は当然のごとく糾弾的になってしまいますからね。もちろん加害者に対して糾弾をし、責任を認めさせるのを望むのは被害者の心理からは当然と思いますし、その気持ちも当然受容されるべきでしょう。けれど、その感情に巻き込まれて、被害者といっしょになって加害者を糾弾する人には加害者の脱暴力への支援は絶対に不可能だと私は思います。(196ページ)


◇加害者の人格の特徴

  • (著者)加害者の人格の特徴はなんでしょうか?
  • (味沢)自尊感情が低く、他人の評価に依存する傾向の強い人が多いのではないか、という印象があります。そんな人は妻や恋人が、自分の努力に対して正当な評価をしないと感じたら、自己嫌悪なり、他者憎悪に容易に転化するのではないかとも思います。彼にとって傷付いた男のプライドを回復させるのは、怒りによる暴力しかないのでしょう。負けるな、泣くな、やり返してこい、と何度も言われて育ってますから。(199ページ)


◇処罰と支援は加害者対策の両輪

  • もう一度繰り返すが、この法律によってDVが犯罪行為であることは明文化された。つまり「DVは犯罪です」という文句を本気で肝に銘じなければならない時代に突入したわけである。この認識はある程度の加害者に対しては暴力の抑止力になり得るだろう。しかしこれだけでは、加害者の暴力の衝動が根源的におさまるとは思えない。味沢さんが言うように、いくら糾弾しても罰しても、暴力はより巧妙に陰湿に潜在化するだけだろう。なぜなら私が本書で描いてきたように、暴力の根源は非常に根深いところにあり、その衝動は法的な抑止力など通じないほど強烈である場合が多いからだ。やはりこの法律の運用と同時に、いかにして加害者の心のケアを充実させ、加害者自身がケアの必要性に目覚めるのを促していくかが、今後に残された社会的課題であろう。アメリカで実施されているように、裁判所の命令によって心理療法や教育的講座を柱とした更生プログラムへの参加を加害者に義務づけるという措置も、わが国に導入されて然るべきだ。接近禁止、住居退去、罰金、懲役だけでは、DVを根絶していくことはできない。処罰と支援、それが加害者対策の両輪であり、決して二者択一ではない。(202ページ)

■読後感
DVに関しては、当然のことながら被害者側の視点に立ち、どのように自身をケアし、そして加害者を糾弾し、自身は生活再建を図るかという方向性で著された著作が多い。本書の独自の立ち位置としては、夫婦の関係性というところに焦点を当てていること(夫の言い分、妻の言い分)が一つある。すぐにDVが始まるケースもあるが、夫婦生活が続く中でたまってきた不満があるとき弾けるようにDVにつながることがあると実例をひいて説明している。なかなか消しさることのない加害性に着目しながら、最終的には加害者を処罰するだけではなく、どう加害者の更生を図っていくかということの重要性を説いている。