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養老孟司『「自分」の壁』新潮新書、2014年6月

「自分」の壁 (新潮新書)

「自分」の壁 (新潮新書)

■内容【個人的評価:★★★−−】

◇自分、自分というけれど

  • 生物学的に見ても「自分」などというものは、地図の中の矢印に過ぎない。そして社会的に見ても、日本において「自分」を立てることが、そう重要だとも思えない。このように考えると、戦後、私たち日本人はずいぶん無駄なことをしてきたのではないか、と思えてしまうのです。「個性を伸ばせ」「自己を確立せよ」といった教育は、若い人に無理を要求してきただけなのではないでしょうか。身の丈に合わないことを強いているのですから、結果が良くなるはずもありません。それよりは世間と折り合うことの大切さを教えたほうが、はるかにましではないでしょうか。・・・結局、誰しも世間と折り合えない部分は出てきます。それで折り合えないところについては、ケンカすればいいのです。(31〜33ページ)


◇「個性を持って生きる」は反自然的である

  • こういう状態−共生といってもいいし、一心同体とか運命共同体といっても構いません−が、自然の本来の姿である。そう考えると、個性を持って、確固とした「自分」を確立して、独立して生きる、などといった考え方が、実はまったく現実味のないものだと考えられるのではないでしょうか。生物の本質から離れているのは明らかです。(60ページ)


◇世間をよくしたければ世間に飛び込み、できる範囲のことをしよう

  • 世間を良くしたい、と本気で考えるのならば、その人は、まず世間に入らなくてはなりません。そうすると、色んな人がいる、色んな考えがあるということが、よくわかるはずです。頭で考えた通りに簡単に進むわけではないこともわかってきます。「これは厄介だ。たいへんだ」ということも実感できるでしょう。多くの人は、それがわかったくらいで大体一生を終えてしまう気もします。それでも自分の一生の範囲でできることをしたほうがいいのです。(89ページ)


◇日本人の従うところと従わないところ

  • 日本人の普段の生活は、世間にある暗黙のルールで動いている。だからその分、普段の生活にさほど関係のないことについて、百家争鳴で言い合って構わないのです。よくヨーロッパに比べて、日本の街並みには統一感がないと言われます。一軒、一軒のつくりには問題がないのだけれど、全体の統一感には欠ける。これが日本ではふつうです。これはヨーロッパなどでは許されません。、だから街並みに統一感がある。それに対して、日本の家の外見がバラバラなのは、少なくとも家に関して日本人は地域に合わせようという感覚がとても薄いからです。それは、おそらく世間の暗黙のルールによる縛りが、あまりにきついゆえの反動でしょう。世間にはきちんと合わせていくけれども、代わりに自分の土地の中では何を勝手にしてもいいだろう、ということです。これは先に述べた「思想の自由」と同じことです。(92〜93ページ)


◇いじめを「なくす」ことではなくいじめへの「対処」を考える

  • どうやったらいじめをなくせるか。NHKの番組で、そんなことを聞かれたことがありました。あんなものなくなるわけがない。それが結論です。法律で縛ったり、教師が説教をしたりしても、なくなりはしません。むしろ考えておくべきなのは、いじめられたときの対処法です。なくすことを考えるよりは、いじめられた子が自分の逃げ場所をつくれるようにしたほうがいい。世界を広げるのです。学校にいるのがつらければ、山に行って虫取りでもすればいいのです。そういうときに自然という逃げ場があるのとないのとでは、大きな違いがあります。(104ページ)


◇日本はもう変えるところがあまりない

  • 表に出る言説では「この国を根本から変えるべきだ」といったものがあります。街中で、「この国を根本から変えるべきでしょうか」と聞けば、「その通り」と答える人もいるでしょう。でも、ホンネでは多くの人はそんなことを望んでいません。ここまでシステムができあがった国で、そんなに困らずに生活ができていれば、革命なんか望むはずがありません。日本のような煮詰まった状態の国では、政治の出番は大してない。万事が必然だからです。「これが悪い」ということにも、ある程度は存在理由があることが多い。つまり根本から変えることに、あまり必然性がない。それが保守の立場であり、自民党的ということです。(145ページ)


◇待機的医療と積極的医療

  • 近藤さんは「がんと闘うな」といった発言で物議を献しました。近藤さんの考えを簡単にまとめると、次のようになります。「がんには、治療によって治せるものもあるが、どうやっても無駄なものもある。また、放っておいても問題ないものもある。転移しないものや、自然に消える『がんもどき』は放っておいても問題ない。無駄なものや、放っておいても問題ないものに対して、手術したり、抗がん剤を投与したりといった医療を施したところで、患者さんの負担にしかならないし、時には逆に命を縮めることだってある」おわかりのように、典型的な待機的医療の考え方です。近藤さんの考え方は目新しいもののように受け止められていますが、そうでもありません。ウィーンの例に限らず、実は大昔からある伝統的な考え方の延長線上にあるといえるでしょう。・・・私自身は自分の方針としては、次のように考えています。自分の体の中から出てくる病気に対しては、待機的医療をまず考えてみる。生活習慣病を考えればわかりやすいでしょう。(155〜159ページ)


◇パソコン、ケータイが普及して、さて人間は

  • パソコンやケータイに限らず、人は便利なもの、面白いと思うものに慣れていく。日本のアニメやゲームがアフリカの奥地まで浸透していきました。こういう流れは、逆に戻すことはできないものです。それを知ってしまうと、もうそれ以前には戻れません。ただ、考えておいたほうがいいのは、ではそれによって人がどう変わるのか、という点です。容易に想像できるのは、人と直面するのが苦手な人が増えるということでしょう。(177ページ)


◇情報を仕入れすぎると考えられなくなる

  • 情報を仕入れすぎるとよくない、というのは科学論文を書いたことのある人ならば、よくわかるはずです。論文を書こうとして、関連のものを全部網羅してチェックしていたら際限がありません。しかも読むうちに、だんだん他人のものに引っ張られてしまう。すると自分のアイデアが枯渇する。私の教わった先生は、その危険性をわかったうえで、「本を読んじゃいけないよ」と教えてくれました。・・・ものすごく利発で気が利いていて、新しい論文の情報等にも詳しい人がいました。業界の最新事情に通じている。しかし、その人は全然自分自身の論文を書けなかった。(205〜206ページ)


◇自分の胃袋を知ろう

  • 「他人のために働く」「状況を背負い込む」というと、不安に思う人もいることでしょう。そんなことをしていては、自分の人生ではなくなるのではないか。会社の犠牲、家庭の犠牲になってしまうのではないか。割を食うのではないか、報われないのではないか。たしかに、そういう危険性はあります。ここで重要なのは、自分がどこまで飲み込むことができるのかを知っておくことです。つまり、自分の「胃袋」の強さを知っておかなくてはいけません。この程度までなら消化できるが、これ以上になると無理だ。その大きさを意識しておくのです。・・・では、それを知るためにはどうすればいいのか。やはり、絶えず挑戦をしていくしかないのです。あまりに安全策を採り続けていては、「胃袋」の本当の強さもわからないし、より強くすることもできません。(217〜218ページ)

■読後感
この書物では、自分というのは探すものではなく、さまざまな妥協の上で最後に残る個性であるとしている。最後の譲れないところはまさに自分であるのだから、徹底的に戦っていくことが必要としている。そして自分の器を知り、問題からは目をそらさず生きていくべきであるとしている。