読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

養老孟司、吉田直哉『目から脳に抜ける話』筑摩書房、1994年1月

■内容【個人的評価:★−−−−】

◇視覚的、聴覚的

  • (養老)いわゆる論理というのは、実は聴覚由来ではないかというふうに言っているんです。要するに、時間の中を順を追って説くというのはまさしく聴覚とか運動の機能であって、目の機能ではない。だから、目には理屈は無いと。目は、こうだというのであって、説得力は一番強いんですが、視覚とか映像はご存じのように、映像の説得力つてのは実に人をだますわけですよ。(19〜20ページ)
  • (養老)私は美術の才能と、言語の才能っていうのは必ずしも一致しないんじゃないか、つまり美術の才能が大きく場所をとると、私の考え方で言いますと、言語の部分は小さくなるはずなんですよ。それを非常に時間をかければもちろん、よくなってくる可能性はありますけれども、特に若い時ですと、美術の才能っていうのはある程度言語性を犠牲にして成り立っているところがある可能性があります。(27ページ)


◇ある系統の言語を身に付けると他の系統の言語はなかなか身に付かない

  • (養老)言語は典型的なシンボル体系ですが、いろんなバリエーションがありまして、同じ言語でも様々あるんですね。たとえば表記の方式もそうです。漢字のようなものからアルファベットまで様々なものがあって、知りませんけどでフライ語とかアラビア語みたいに母音が落ちるタイプのものとか、人間の脳はどれでも使うことができる、しかしある体系を入れちゃいますと、なかなかほかの体系が入らないという・・・。(31ページ)


鎌倉時代は人の死を通じ身体に向き合っていた時代

  • (養老)『方丈記』をお読みになればわかりますけれども、当時は人間の死体がゴロゴロ転がってたんですね。ですから、人体に関する身体的な知識というのは、あの頃の方が高い可能性がありますね。学生に講義する時、いつも『九相詩絵巻」を見せるんですけど、あの最後の骨格、スケルトンの状態、ああいうものが非常に正確に書いてあります。明らかに実写であることがわかります。全体が実写ですけど。そういう段階からずっと下っていきまして、その後客観的な解剖図みたいなものはあまりないんですね、不思議なことに。これをどう解釈するかはまた別なんですけど、私は鎌倉時代は一番客観的に身体を見つめた時代だろうと。運慶、快慶のような鎌倉の彫刻もそういう背景がありますね。それから、身体性ということに非常に注目したために、変な話ですが、宗教が普遍性をもったと思うんですね。死というものが非常に身近なもので、死体が身近なものでしたから、あの頃にできた浄土真宗にしても日蓮宗にしても、道元にしても、いまだに生き残っている。(78ページ)


◇個人に重きを置いた戦国時代から心(脳)に重きを置く江戸時代へ

  • (養老)そういう個人主義がストンと江戸時代で変わるんですね。個人を消すわけです。民放でやった利休の番組で、最後に利休が何て言ったかと言うと、「利休は死すとも茶の湯は死なず」(笑)。ちょうど戦国から江戸の思考の転換で、個人がなくなっても生き残るものが価値観の筆頭にあって、それを私は「江戸型の唯心論」と呼ぶんですが、江戸になると身体がスッと消えてしまうんです。身体が消えて何が起こるかというと、たとえば人間の身体を描く時はデフォルメするということが起こるんです。一番それが典型的に出るのがポルノグラフィー。ポルノグラフィーを描く時にペニスをあんなに大きく描く、一体あれは何かということですけど、あれは非常に端的に言うと、ベンフィールドの絵ってご存じですか。人間の脳に代表されている人体の部分をその部分が脳に代表されている比率で絵に描く、そうすると唇ばかりが大きな絵になっちゃう、あれと同じ。つまり、性行為の時のペニスの大きさ、頭の中に占める生殖器の大きさというのはまさにああなんで、残りの体の部分は極端に言えば描かなくたっていいわけです。(79ページ)


◇普遍性を持つ「身体」と教育により変わる「脳」

  • (養老)私はいわゆる普遍性というのは「身体性」だと思いますね。人間である限り、同じものというのは体なんですね。脳っていうのは、頭っていうのは、教育で相当変えられるんですね。日本語を入れたら英語は入らないし、中国語入れたら日本語は入らないわけですね。そういう、かなり取り替えがきく部分があります。子供の時から日本人だって英語を突っ込んじゃえば英語というシステムを持つことができます。身体性というのは、そうはいかないと思います。(85ページ)


◇人間の理性をきわめるとたどりつくところ

  • (養老)人間が活動してその結果生じてきたものをどうやって循環させるかっていうことについて、全部人工的にコントロールしていこうという考えが一方にあって、他方で自然のサイクルにどこかから任せてしまうしか仕方がないっていう、両者の配分がおそらく将来的にも大きな問題になっていくと思う。しかし、そのサイクルを完全に読み切るようにやっていきますと、実は人生が全部読めてきちゃうような思考に近づいてくるんですね、副作用として。
  • (養老)そうすると、人間生きていてどこが面白いかっていう問題が必ず起こってくるんです。やっぱりとんでもない時にとんでもないことが起こるから生きてて面白いんであって、その時が非常に不安でもあれば危険でもあるかもしれませんけれども、実は生き物というのはそういうのをずっと通り越してなおかつ生きてきたもので、そういう不安というものを全部消してしまった世の中が決して幸せな世の中ではないだろうと誰でも思う。文学者が前から書いてるんですね。人間がどれだけ理性的にコントロールできるかっていう、根本的にはそれをどっちに置くか、とことんまでコントロールしようという考え方と、どこかで任せちゃおうという考え方ですね、それが生きているってことの二面性と言いますか、安全に生きるためには予測がつかなきゃいけないし、完全に予測がついたら生きてるという意義がなくなっちゃう。(125〜126ページ)


◇大きな仕事には一生懸命さだけでなく息抜きも必要

  • (養老)私もインターンの時、八時間の手術についたことがありますけど、実は手術の失敗って、思わぬところに穴があるんですね。一番基本的なことに気が付かない、人間ってのは一生懸命になりゃいいってもんじゃないですね。何回もやった方はご存じだと思いますが、一生懸命になってる時に何かポカッと落ちてるんですね。
  • (吉田)そうです、そうです。私もドラマの本番撮ってる最中に笑ったり、何でわざわざたばこに火を着けるんだって言われたりしました(笑)。 (130ページ)


◇生き方を「死」から出発して議論すべきではない

  • (養老)最後のポイントだけ取り上げて、その中に一生懸命内容を探そうと思っても、本当にピン・ポイントですから、中には何もないと。ちょうど光が素粒子ならそれ以上分解できないというのと同じですね。「それは何だ」「粒だ」っていう議論はいくらでもできるんですけどね、結局「死」というものをもたらしているのが「生」であって、「生」というのは明らかに内容を持っている。「生」の内容が一番最後には問題になってくるので、そこだけ議論したらって言うんですけど。(146〜147ページ)


◇脳は徹底的に管理し、文化を伝える

  • (養老)徹底的に管理するんですね、脳というのは。脳が発見したもう一つの方法ってのは、遺伝子を通さない再生です。「文化」っていう存在。「利休死すとも・・・」、これが考えようによってはたちが悪い。伝統とか文化とか称するもの、その解析をこれからしなきゃいけないなと思ってるんですけれども。私は「シンボル体系」、「シンボルのシステム」というふうに呼んでますけれども、金を遣うってのもそういうシステムですね。「経済」とわれわれは呼んでますけど、非常におかしなものであって、もうわれわれその中にどっぷりつかってまずから、おかしいと思ってませんけど、金が出来てきたのはそんなに古い話じゃない。何であんなものが可能かと言えば、脳の中にああいう貨幣に相当するような機能が間違いなくあるわけですね。(224〜225ページ)


◇「個性」は知らずしらずに形成される

  • (養老)普通の方は白紙に記憶するとお考えになるんだけれども、そうじゃないんです。十年生きる、二十年生きれば必ず「個性」というのが出てくる。その「個性」とは何かと言うと、ありとあらゆる記憶の集積ですよね、もう一つの言い方をすると。そこに新しい記憶が入ってくるためには、今までの記憶の集大成のフォームつてのがあって、その中に入れられるものでなければ絶対に入らないですね。それでしばしばあまり極端な経験をすると、全部ぶっこわれちゃう。そうすると新しい「記憶」は、どうしたって総体としての記憶の中に入り得る形に変形して入れてるはずですね。ですからそれが極端に言うと、人によってみんな違うわけですから、違う形の集合体が出来てきて、それをわれわれはそれぞれの人と呼んでいるんだと思います。変な話ですけど、キズの入れ方も決まっちゃうわけですね。平面にキズを入れることを考えると、いくつもキズが入っているとすると、残った白い部分にしかキズが入れられないと。そういうことをするために、実は大変な手聞をかけてるんじゃないか。それで一つ浮かび上がってくるのがやっぱり睡眠ですね。
  • (吉田)睡眠。
  • (養老)昼の聞に非常に大量の情報が入ってきて、それを全部記憶に入れたらたまったもんじゃないと。 (227〜228ページ)

■読後感
対談を通じて、脳という器官の特殊性を論じるのみならず、人間の考え方や文化の伝承までも歴史的視点からとらえようとしている。