内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書、2002年6月

 

 

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寝ながら学べる構造主義 *3

 

 

■内容【個人的評価:★★★★-】

◇ 入門書の持つ力:根源的な問い
  • 入門書は専門書よりも「根源的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則 です。「入門書がおもしろい」のは、そのような「誰も答えを知らない問い」をめぐって思考 し、その問いの下に繰り返し繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。そして、知性 がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの 下にアンダーラインを引くこと」なのです。(11ページ)
構造主義の考え方:ひとことで言ってしまうとこうなる
  • 構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのもの の見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思ってい るほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんど の場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」 「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、 そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たち の思索の主題となることもない。 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その 自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義 という方法の功績なのです。(25ページ)
ヘーゲルマルクスが捉えた労働:これにより初めて「私は」を語ることができる
  • へーゲルもマルクスも、この自己自身からの乖離=鳥瞰的視座へのテイク・オフは、単なる 観想(一人アームチェアに坐って沈思黙考すること)ではなく、生産=労働に身を投じること によって、他者とのかかわりの中に身を投じることによってのみ達成されると考えました。つ まり「労働するものだけが、『私は』ということばを口にすることができる」ということにな ります。(31ページ)
フロイトが見抜いたこと:人間は自分自身の精神生活の主人ではなれない
  • フロイトは彼自身の臨床例に基づいて、単純な言い間違い、書き間違い、物忘れといった日 常的な失錯行為から始めて、強迫神経症やヒステリーに至るまで、すべての心的な症状は、そ の背後に「患者本人が意識することを忌避している、無意識的な過程」が潜在している、とい う仮説を立てました。フロイ卜の貢献はマルクスと深いところで通じています。それは「人間 は自分自身の精神生活の主人ではない」ということです。(31ページ)
ニーチェのとらえた人間:大衆を嫌い、超人を求める
  • ニーチェは「超人道徳」を説いたと言われていますが、実は「超人とは何か」という問いに は答えていないのです。彼は「人間とは何か」についてしか語っていないのです。人間がいかに堕落しており、 いかに愚鈍であるかについてだけ、火を吐くような雄弁をふるっているのです。 す。 ニーチェにおいて、「超人とは何か」という問題はつねに「人間とは何か」という問題に、 「貴族とは何か」という問題はつねに「奴隷とは何か」という問題に、「高貴さとは何か」とい う問題はつねに「卑賎さとは何か」という問題に、それぞれ言い換えられます。 この「すり替え」がニーチェの思考の「指紋」であり、その致命的な欠陥でもあるように思 われます。というのは、こういうふうに「言い換える」 と、結局のところ、人間を高貴な存在 へと高めてゆく推力を確保するためには、人間に嫌悪を催させ、そこから離れることを熱望さ せるような「忌まわしい存在者」が不可欠だという倒錯した結論が導かれてしまうからです。(56ページ)
ソシュールによる言語研究に基づく人間論:自我中心主義への訣別
  • ところが、このどうにも足元のおぼつかない「私のアイデンティティ」や「自分の心の中に ある思い」を、西洋の世界は、久しく「自我」とか「コギト」とか「意識」とか名づけて、そ れを世界経験の中枢に据えてきました。すべては「私」という主体を中心に回っており、経験 自己とは「私」が外部に出かけて、いろいろなデータを取り集めることであり、表現とは「私」が 自分の内部に蔵した「思い」をあれこれの媒体を経由して表出することである、と。 このような考え方は私たちの中にまだ根強く残っていますが、これをここではとりあえず 「自我中心主義」(egocentrisme)と呼ぶことにします。ソシュール言語学は、やがてこの自我 中心主義に致命的なダメージを与える利器であることがあきらかになります。しかし、ソシュ ールの考想がそののち西洋の伝統的な人間観にこれほど致命的な影響を及ほすことになるとは、 彼の生前にはたぶん予見した人はいなかったでしょう。(75ページ)
フーコーが発生史にこだわる理由:社会制度の発生には特有の歴史的環境がある
  • フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。 それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はど のように語られずにきたか?」です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、 隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。 その答えを知るためには、出来事が「生成した」歴史上のその時点-出来事の零度-に まで遡って考察しなければなりません。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の「い ま・ここ・私」を「カッコに入れて」、歴史的事象そのものにまっすく向き合うという知的禁 欲を自らに課さなければなりません。そのような学術的アプローチをフーコーニーチェの 「系譜学」的思考から継承したのです。(86ページ)
  • 一七世紀ヨーロッパをフーコーは「大監禁時代」と呼んでいます。それはこの時代になって、 近代社会は「人間」標準になじまないすべてのもの-精神病者、奇形、浮浪者、失業者、乞 食、貧民、などさまざまな「非標準的な個体」-を強制的に排除、隔離するようになるから です。標準化は時代が下るにつれてますます過激化し、近代ヨーロッパの「監禁施設」には、 自由思想家、性的倒錯者、無神論者、呪術師からついには浪費家にいたるまで、およそ「標準 から逸脱する」あらゆるタイプの人間たちが収監されるようになります。(90ページ)
◇ バルトのテクスト理論:作者はテクストの一部である
  • バルトのこのテクス卜理論は、「作者」という近代的な概念そのものがもう「耐用年数」を 超えてしまったことを教えてくれました。 最近、インターネット上でのテクストや音楽や図像の著作権についていろいろな議論が展開 していますが、バルトはいまから三十年前に、すでに「コピーライト」というものを原理的に 否定する立場を明らかにしていたのです。 作品の起源に「作者」がいて、その人には何か「言いたいこと」があって、それが物語や映 像やタプローや音楽を「媒介」にして、読者や鑑賞者に「伝達」される、という単線的な図式そのものをバルトは否定しました。(126-127ページ)
レヴィ=ストロースの『野生の思考』:文明人と未開人は別のコード体系に生きる
  • レヴィ=ストロースの『野生の思考』はいわゆる「未開人」が世界をどのように経験し、どのように秩序つけ、記述しているかについての考察です。浩瀚なフィールドワークに裏づけら れたレヴィ=ストロースの結論は、「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは発展段階の 差ではなく、そもそも「別の思考」なのであり、比較して優劣を論じること自体無意味である、 ということでした。 『野生の思考』の冒頭に、ある人類学のフィールドワー力ーが現地で雑草を摘んで「これは何 という草ですか?」と現地の人に訊ねたら大笑いされた、というエピソードが引かれています。 何の役にも立たない雑草に名があるはずもないのに、それを訊ねる学者の愚行が笑われたので す。(146 ページ)
  • 人間は生まれたときから「人間である」のではなく、ある社会的規範を受け容れることで 「人間になる」というレヴィ=ストロースの考え方は、たしかにフーコーに通じる「脱人間主義」の徴候を示しています。しかし、レヴィ=ストロースの脱人間主義は決して構造主義についての通俗的な批判が言うような、人間の尊厳や人間性の美しさを否定した思想ではないと私 は思います。「隣人愛」や「自己犠牲」といった行動が人間性の「余剰」ではなくて、人間性 の「起源」であることを見抜いたレヴィ=ストロースの洞見をどうして反人間主義と呼ぶこ とができるでしょう。(166ページ)
ラカン精神分析:人間は人生で二度大きな詐術を経験し「正常な」大人となる
  • ラカンの考え方によれば、人聞はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります。一度目は鏡像段階において、「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎つけること。二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することです。 みもふたもない言い方をすれば、「正常な大人」あるいは「人間」とは、この二度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものの別名です。(195ページ)
  • 他者との言語的交流とは理解可能な陳述のやりとりではなく、ことばの贈与と嘉納のことであって、内容はとりあえずどうでもよいのです。だって、「ことばそれ自体」に価値があるからです。ことばの贈り物に対してはことばを贈り返す、その贈与と返礼の往還の運動を続けることが何よりもたいせつなのです。(196ページ)
◇まとめていうと:年をとって初めてわかること
  • レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは 「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。 「なんだ『そういうこと』が言いたかったのか。」 べつに哲学史の知識がふえたためでも、フランス語読解力がついたためでもありません。馬齢を重ねているうちに、人と仲良くすることのたいせつさも、ことばのむずかしさも、 大人になることの必要性も、バカはほんとに困るよね、ということも痛切に思い知らされ、おのずと先賢の教えがしみじみ身にしみるようになったというだけのことです。 年を取るのも捨てたものではありません。(200ページ)

■読後感

構造主義を形成してきたそれぞれの思想のエッセンスをとらえ、先駆者たちが取り組んだ課題と到達した知見を紹介し、そしてこれを自身の人生経験も踏まえて改めて分かりやすく、大胆に再解釈している。

まさに内田先生の真骨頂であり、結論は大胆すぎているかもしれないが、緻密さと非常に男らしいというか潔い一刀両断があり、われわれ一般の読者にもなじみやすい構成となっている。

結論としては、「人と仲よくしよう」!

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