加藤周一『羊の歌:わが回想』岩波新書、1968年8月

 

羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 689)

羊の歌―わが回想 (岩波新書 青版 689)

 

 

■内容【個人的評価:★★★★-】

旧制高校精神主義
  • しかしその歌の文句の要点は、「栄華」そのものにあったのではなく、そもそも街とそこに住む人々を「低く見」るということにあったのだ。その小集団の内側での「平等」は、より大きな社会のなかでの「不平等」を前提として成りたっていた。それは「平等」の観念が徹底していなかったということであろう。その不徹底さは、みずからを周囲から区別しようと望んでいた集団が、周囲の社会から多くの価値をそのまま借用しているということにもあらわれていた。「選良」の合理主義と同居して、そこにはまた一種の精神主義、あるいは道徳主義があった。寮生のすべてに及ぶ規則は、合理的につくられていたが、寮生の一部、殊にたとえば運動部の部員のためにだけ適用される規則や慣習は、独特の精神主義のために、全く不合理なものであった。(118ページ)
◇大学生活で出会った劇場の体験
  • 駒場の三年間に私が経験したのは、寄宿寮の共同生活や何人かの教師たちとの接触ということだけではなかった。私はまた歌舞伎座を見物し、築地小劇場へ通った。歌舞伎座は羽両左衛門、菊五郎吉右衛門の時代で、私は立見席からむやみに広く空虚な舞台が、ただひとり戯の菊五郎の踊りのために、たちまちひきしまるのを見た。そこにはまさに圧倒的な「芸」があった。羽左衛門の歯切れのよい巻舌は、立見席までよく通って、私を酔わせた。(131ページ)
ショパンピアノ曲との出会い
  • その頃の私が、浪漫派の音楽、殊にショパンピアノ曲のなかに何を感じていたかを、いうことはむずかしい。しかしそれは、想い出すことがむずかしいからでは決してない。あまりによく想い出すことのできる経験を裏切らずにそれを言葉におき代えることが、むずかしいからである。芸術という言葉によって説明されるものではなく、私にとって芸術という言葉を説明するもの、実に抵抗し難い力で私の感情をかきたてながら、しかもその感情を超えようとするもの-その感情は、ヴァーグナーの楽劇の破壊的な情熱と陶酔からは遠く、またモーツァルトピアノ曲の透明な歓びからも隔っていて、はるかに身近かな、打明け話に似た一種の親密さのなかにそれ自身を包みこみながら、心理的な起伏に富み、期待から焦燥へ、ためらいから情熱へ、甘美な憧れからきらきらと輝く束の間のよろこびへ、移りゆき、ゆれ動き、遂に消え去ってゆこうとするものである。その頃の私は死を怖れていた。真夜中に突然、自分自身と周囲のすべてが消え去ってしまうという観念に捉えられると、私は寝床のなかで恐怖のあまり冷汗をかき、ながい間眠ることができなかった。しかし私は生きていることに何らかの積極的な意味をみとめていたのではない。意味をみとめていなかったから、生きていることにいうべからざる執着を生じたのかもしれない。その執着の中心-また少くとも中心にちかいところに、あの低音部の和音の渦のなかから浮きあがって来る限りなく切実で限りなく繊細な旋律があったといえるであろう。とにかくショパンと浪漫派をとおして、音楽は私の人生のなかに介入して来るようになった。それは私と音楽との全く新しい関係のはじまりであった。(134-135ページ)
◇東京へ帰り、東京を再発見する
  • 私たちは東京の家へ帰ると、その翌日から、毎日、活動写真を見たり、演奏会へ行ったり、また格別の目的がなくても、街のなかへ出かけた。「帰ってきたかと思うと、またすぐに出かけてばかりいるのね」と母はいった。しかし妹はなぜ私が出かけたがるのかをよく知っていたし、私は彼女が知っているということを知っていた。私たちは追分の夏の結論をひきださねばならなかったのであり、それは東京を何度でもあらためて発見するということであった。雨の舗道に映る銀座の灯、喫茶店の曇った硝子窓、南風がはこんで来るかすかな海の香り、公会堂から日比谷交差点までの煉瓦の道、耳のなかに残っている聞いたばかりの音楽の後味、そして実に多くの人々の実に多くの顔……その多くの顔は、決して毎年の秋に同じではなかった。あるときには落着いていたし、あるときには焦立っていた、あるときには懐しく、あるときには救い難く愚劣にみえた。しかし彼らが陰惨にみえたことは一度もない。追分から帰って東京を再発見するこの私の習慣は、十年以上もつづいて戦後に及んだ。遂にその習慣の途絶えたとき、私は東京を再発見するために、もっと遠い所から帰ってくるようになっていた。(147ページ)
ベトナム戦争で亡くなった子どもたち
  • 「ぼくはそういうことを知りたくないね、平和にたのしんで暮したいのだ」とその実業家はいった、「知ったところで、どうしようもないじゃないか」-たしかに、どうしようもない。 しかし「だから知りたくない」という人間と、「それでも知っていたい」という人間とがあるだろう。前者がまちがっているという理くつは、私にはない。ただ私は私自身が後者に属するということを感じるだけである。しかじかの理くつにもとづいて、はるかに遠い国の子供たちを気にしなければならぬということではない。彼らが気になるという事実がまずあって、私がその事実から出発する、または少くとも、出発することがある、ということにすぎない。二五万人の子供・・・役にたっても、たたなくても、そのこととは係りなく、そのときの私には、はるかな子供たちの死が気にかかっていた。全く何の役にもたたないのに、私はそのことで怒り、そのことで興奮する。(168ページ)
◇厳格な実践としての医学
  • 医学の-つまり実験科学の世界へ入ってゆこうとしたときに、私が出会ったのは、新しい考え方ではなく、慣れ親しんできた考え方の自覚、研究室での実践、実践を通してのその考え方の徹底ということであった。教室で血液学を専攻していた二人の先輩は、その意味で厳格であった。熟練を尊重し、測定の誤差範囲が一定した人の数字でなければ信用せず、しかもあたえられた事実から推論するときには慎重を極めていた。(201ページ)
◇自分とこの作品を振り返って
  • 中肉中背、富まず、貧ならず。言語と知識は、半ば和風に半ば洋風をつき混ぜ、宗教は神仏のいずれも信ぜず、天下の政事については、みずから青雲の志をいだかず、道徳的価値については、相対主義をとる。人種的偏見はほとんどない。芸術は大いにこれをたのしむが、みずから画筆に親しみ、奏楽に興ずるには到らない。-こういう日本人が成りたったのは、どういう条件のもとにおいてであったか。私は例を私自身にとって、そのことを語ろうとした。 題して「羊の歌」というのは、羊の年に生れたからであり、またおだやかな性質の羊に通うところなくもないと思われたからである。(223ページ)

■読後感

この書物は、帝国主義、世界大戦など困難な時代を背景に、旧制高校帝国大学などで学びながら、教師、友人や家族とのつながりのなかで、また医師という自らの職業の実践を通して、時代に流されることなく「人の生命こそもっとも重いもの」との考えを育み、反戦を訴えてきた筆者の大叙事詩である。

筆者は、能や歌舞伎など、日本の伝統芸能にも若いころから親しんでいるが、とくに灯火管制の敷かれた1941年12月8日の新橋演舞場で、まったく観客がいない中で自身が観客として体験した文楽の場面など興味深いエピソードがたくさんあった。

ショパンの音楽とのかかわりも興味深い。ロマン主義の中でもショパンの音楽は独特な位置を占めていて、深い内省が美しい音楽の至るところに秘められている。蓄音機や演奏会の体験を通じ、ショパンの音楽は筆者を惹きつけてやまなかった。

一つひとつのエピソードが、困難さを背景にしながらも、ロマン主義的なストーリーを形作っており、読んでいるだけで例えばラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を聴いているような気さえする書物だった。