藤原智美『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』文藝春秋、2014年1月

 

 

■内容【個人的評価:★★★--】

◇本書のテーマと見取り図
  • 数年前から「やがて紙の本がなくなる」といわれてきました。 しかし、なくなるのは本ではありません。 人々の読書への欲望そのものが失われるのです。 結局いま起こっているととはすべて、ぼくたちの思考の変化なのではないかという思いが、ずっと胸の内にありました。 それがこの本のテーマなのですが、実際に書くきっかけとなったのは、ぼくの体験と自省です。 本部のテーマはつぎの三点です。
    一つ目は、ネットの普及によって紙に記される「書きことば」が急速に衰退しているとと。
    二つ目は、それによって国や経済のあり方はもとより、ぼくたちの人間関係と思考そのものが根本から変わろうとしていること。
    三つ目は、だからこそ人は、ネットをはなれて「読むこと」「書くこと」が必要なのだということです。 ではここで、本書の見取り図を紹介します。 序章では自分自身のことばの混乱と、言語というものが、大きく変化したり、消滅 するものであることを書いています。
    一章は二一世紀に入ってからは「話しことば」が中心の時代になり、ネットというモンスター・メディアがその推進力になっているということを、政治、司法、憲法な どの混乱と動揺を通して見ていきます。
    二章はことばの歴史をふり返っています。 中世までが「話しことば」の時代であり、近代は活版印刷技術による「書きことば」の時代、だったこと。 それが国家と個人を支えていたととについて考えました。
    三章は将来訪れる日本語の終わりについて書きました。
    四章はネット上のことばが人の思考を揺るがし、大きな不安をともなう社会がつくられようとしているとと。しかしぼくたちは、ネットから独立したことばである 「本」と「読み書き」を捨てることはできないという理由を書きました。(2~3ページ)
◇ 「読み・書くことができず、考えがまとまらない」という現象
  • ケータイの普及は人と人との関係を混乱させ不安定化させています。 ぼくもことばに関して混沌とした、つかみどころのない状況のなかにいます。 さすがに電信柱を話し相手にすることはありませんが・・・。 なぜか書きづらい。いつも書きよどんでしまう。 考えがまとまらず、頭のなかでことばが散らばっているだけ。 パソコンを開いても、文字は自に入るけれども意味がつかみにくい。 心に響いてくることばには、このところお目にかかったことがない。 結局、パソコンをとじて、親しんだ本に目を落とす。 ここ数年、ことばにつまずいて、書くこと、読むことがスムーズにいかなくなりました。 ことばが頭のなかでちりぢりになって消えてしまいそうなときもあります。 めまぐるしく流れていくことばの洪水が、ただただノイズを発しているだけに感じられるのです。 きっとことばにたいする怠慢と老化が、こんな予期しない結果を招いたのだと思っていました。 しかし、そうではありません。これは医学的な「症状」ではなく、社会的「現象」なのかもしれない。 政治家や官僚の暴走することばも、憲法解釈の揺らぎも、ぼくのことばの混沌も社会全体が巻きこまれようとしている大きな渦のなかで起こっている、 ひとつひとつの破綻なのかもしれない。モザイクの一片がはげ落ち、かけらとなって散らばっている。(15~16ページ)
◇電子ネットワークがひき起した思考の亀裂
  • 長く紙とインクのことばに慣れ親しんできた人ほど、電子ネットワークがひき起こ す思考の亀裂に落っこちてあがいています。 ぼく以外にも同様の違和感を覚えている人がいるはずなのですが、たいてい原因は自分にあると考えて、そのままになってしまいます。 なぜなら人は、ことばをコミュニケーションや表現の道具だととらえてしまうからです。ハサミや万年筆と同じで、使いこなすことがヘタになったと思いこむのです。 ところがことばは、人からはなれたところにある独立した技術や道具ではない。身 体深くに入りこみ、思考と一体となります。そのとき、身体外部にある道具だと思っ ていたことばは、人が自在にコントロールできるものではなくなっている。(中略)ことばは人の外部に存在するモノ、道具ではなく、身体の内にもあって、外と常に往来している、目に見えないにもかかわらず、それは自分自身のもう一つの心臓や背骨といってもいい不可欠なものです。(22~23ページ)
◇ サピア・ウォーフの言語相対論-人の認識は言葉と文化による-
  • 二○世紀のアメリカ人言語学者、エドワード・サピアとその弟子のベンジャミン・ ウォーフによって主張された「言語相対論」は、ことばと文化が異なれば、ものごとの認識さえもちがったものになるというもので、思考の基盤はまさにことばにある、としました。 たとえば、ピダハンの人々には森の精霊が見えます。彼らのようすから「見えている」のだろうということはリアリティをもって「文明人」にも伝わってきます。しかしピダハン語以外の言語を使う人々にはそれが見えないのです(26ページ)
◇ 言語文化に関するあまりにも急激な変化
  • 印刷技術が生まれた五○○年まえ、人々はその変化をなん世代にもわたって、ゆっ くりと経験していきました。それでも人類が文字を生みだすまでにかかった時間にくらべるとわずかなものです。しかし現代は、同様の大規模な変化を二世代、あるいは 三世代たらずで、いっきに経験していることになります。 ラジオという新しいことばの窓が家に入ってきたとき、家庭に外部からさまざまな声が届くようになりました。やがてテレビによって、外から入ってくることばに映像が加わります。それと前後して電話という音声言語のネットも整備されました。そしてついにパソコンがネットにつながるのです。いまではモバイル機器が世界中の人々の手にいきわたりました。(37ページ)
◇ アガリ症の体験と克服-誰もがプレゼンテーションする時代-
  • アガリ症がふいに顔をだすようになりました。学生時代も初対面の人と喫茶店に入ると、手が震えてカップがカタカタと音をたてる。 コーヒーも飲めないなどというのはいつものことで、社会人になっても、電話をかける、だけのことなのに、ダイ ヤルをまわすまで一時間、二時間も心の準備が必要でした。それを、どうにか克服できたのは、自分であみだしたイメージトレーニングのおかげです。たとえば結婚披露宴で友人代表のスピーチを頼まれたとすると、あらかじめ内容を暗記し声にだして反復することはもちろんですが、それに会場のようすや、スピーチ台に立ったときに自分の目に入る光景などを微細に想像します。アガルような要因(急にマイクが切れるとか)を想像し、できるだけ大げさにシーンをイメージします。 すると、実際の場面でも「症状」がでることがなくなっていきました。 たいていのアガリ症は他人の視線をあびるときに、ことばを口にしようとすると起こるものです。「不言実行」ということばが生きていた時代には、日常的にこうした緊張を強いるような「語りかける」場面は、いまより少なかったと思います。なにしろ「不言」が尊ばれたわけですから。しかしいまは、ふつうの若い人たちにも、かしこまって他者に語りかける場面がふえています。プレゼンテーションとよばれるスピーチなどは、その典型です。 いまではだれもが有言、雄弁でなければならない。自信たっぷりに、しかし押しつけがましくなく、自分を表現しなければならない。いつのまにか、人々はまるでバラク・オバマ池上彰のように語ることが求められるようになりました。 だれもがプレゼンテーションの機会がある、あるいはプレゼンテーションしなければならない時代。そこではアガリ症など論外なのです。(46~47ページ)
ソクラテスは文字が記憶力を減退させると言っているが・・・
  • プラトンの『パイドロス』にはソクラテスのことばが記されています。 「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられる・・・書いたものを信頼して、 ものを思い出すのに・・・自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである」(藤沢令夫訳) いささか突飛な主張に見えますが、「文字」「書いたもの」を「ネット」ということばに置きかえると、現代にも通じる内容となります。 しかし、ソクラテスの「本が記憶力を衰えさせる」という説には、どうしても納得 、がいかない。いま、いろいろなレコーダー、そしてネットやケータイという記録媒体が、記憶力や思考力を減退させるという声を耳にしますが、本が記憶という点で悪くいわれるのを聞いたことがありません。(107ページ)
◇ ネットと注意散漫性
  • 思考の混乱、思考の拡散と消滅はまさに新しい知的道具への適応によるものだと思います。アメリカのコラムニスト、ウィリアム・パワーズは『つながらない生活』で、 その混乱ぶりを紹介していますが、そのなかに印象的なひとことがあります。 「知的労働者は平均すると三分ごとに作業内容を切り替えている」というものです。 パソコンにむかっていると、表示されたテクストを読んでいても、画面の端に表示されるボックスについ目がいってクリック。メールを書いていても、ふと思い浮かんだキーワードを検索して、そのまま三○分もメールにもどらない。こんなことがだれにもあるでしょう。 紙とインクを使っての読み書きには、高い集中力が必要なのですが、ときにテレビや高機能のモバイルフォンなどの情報が思考に入ってきます。 じつは頭のなかは疲労困憊し悲鳴をあげているのかもしれません。 こうして三分ともたないようにさせられてしまった思考の持続力にことばの混乱と軽さの理由があるともいえます。(173ページ)
◇ 書き言葉は自分を支え考えるためのすべてである
  • 結局は社会を形成することばの軸が、書きことばからネットことばへと移行しつつあるだけなのです。書きことば中心の近代社会であっても、人々の日常は話しことばなくして成り立ちません。ネットことばの時代となっても、日常から紙とインクの書きことばがすっかり消えてなくなるのは、もっと先のことでしょう。 というより書きことばが「残る、消える」という議論などどうでもいいのです。ぼくたちは書きことばの力が、自己対話力、思考力にあるということを知っているからです。問題は自己を支えることばの軸足をどこに置くかということです。それは思考するさいの立ち位置といっていいでしょう。自分にとっての書きことばとは、自己を支え考えるためのすべてである。そのように規定して日常をあらためて生きていくしかない。これが本書の結論です。怖いものは何もありません。(228~229ページ)

◇ そして「ネット断食」へ

  • というわけで私、これから「ネット断食」に入ります。しばしネットから逃れて 「読む書く考える」だけの時間を過ごしたいと思います。(231ページ)

■読後感

ネット全盛の社会になり、注意散漫と話し言葉の洪水が起き、自分の思考はちっとも深まらない、というのが著者の危惧である。 自分の思考は、書き言葉だけが支えることができる、そのためにはネット断食により話し言葉をできるだけ遮断すべき、という結論に至る。 ネットはたしかに便利なのだけれど、一過性の情報ばかりで、自分の脳みそをたがやす、といったことには通常の使い方では至らない。できるだけアウトプットを意識した使い方にすること。また情報の洪水を遮断することが大切だろう。