吉田健一『わが人生処方』中公文庫、2017年6月

 

わが人生処方 (中公文庫)

わが人生処方 (中公文庫)

 

 

■内容【個人的評価:★★★★-】

◇ 人生は河と同じようなもの
  • 何か熟練を要する仕事を熟練した人間がやってゐる時でもさうで、鵜飼ひが鵜を操ってゐる時には、自分の腕や、自分が飼ひ馴らした鵜だけでなしに、目の前を水が流れて行く具合にまで自信を持ってゐるに違ひない。水流の加減まで熟知してゐるといふのではなくて、自分が現在鵜を操ってゐる河だからであり、水がなければ鵜が放てないからである。例へば、自分がその時、 急に盲腸炎を起さないことまで信じてゐるのである。 つまり、人生は河と同じで、突然逆に流れ始めたりしないものだといふことが、年を取ると解って来る。そしてこれも河と同じで、人生が自分を支へてくれるのを感じるやうになると、ものを知らなくても人間は生きて行ける。だから生きてゐるのが面白くなるといふことにもなるのだらうが、その因果関係は疑って見てもいい。 初めから人生といふものをかなり現実的に、河が流れるやうなものだとは思はなくても、何か確かににそこにあるものだと思ってゐる型の人間が自信も得るし、生きてゐるのが面白くもなるのではないだらうか(15~16ページ)
◇ 人生とは何ぞやという態度にどれほどの意味があるのか
  • 青年時代のことは別として、人生とは何ぞやといふ態度にどれ程の意味があるのか、 兎に角、つまらない。芸術論といふものが幾通りあっても、芸術の実体がそれでどうにもなるものではないのと同じ訳で、人生の解釈などやってゐるよりも、人生は一つしかないのだから、実地に当って見る方がどの位ましで、面白いことか解らない。宗教家は人生の意味など求めてゐはしないので、人生に不満だからその向うまで行かうとするのである。優れた宗教家が少しも観念的でないのはその為である。(16ページ)
◇ 足が地についていることこそ大切なこと
  • 酒を飲んで往来を通る女が皆綺麗に見えるとか、げっぷの匂ひで先刻平げたばかりの御馳走を思ひ出すとか、さういふ状態にあることは足が地に着いてゐることであり、 それを無上の楽みと心得てゐる人間の知的な働きにこそ期待出来る。誰でも、本当は母なる大地に憧れてゐるものなので、しまひにそこに埋められるのを待つ間、せめて大地との接触だけは保って置かうと思ふのは人情である。その人情さヘ失った人間が言ふことや書くことは当てにならず、我々もさういふ人間にならないやうに気を付けなければならない。(22ページ)
◇ 肉体的な欲望について
  • どうも人間が生きていく上では、各種の肉体的な欲望が強いことが大切だといふ気がしてならない。(18ページ)
◇ 五十にして己を知り、人間らしく生きる
  • 人間も五十近くまで生きれば、やりたいことは大概やってしまふものである。昔と違って、そこで隠居する訳に行かないのは余り嬉しいことではないが、それでも若い頃のもやもやは仕事の上ではっきりした形を取り、人間が一生のうちに身に付けられる知識には限度があることも解り、自分がどういふ人間であるかといふことも、既に努力したり、工夫したりすることではなくなって、或は少くともそれでまだ変化が期待出来る範囲が狭められて、兎に角、もう若いことで苦められるといふことはなくなる。人間が本当に人間らしくなるのは、それからではないだらうか。(33ページ)
◇ 仕事とは何かの形で秩序を作り出す行為
  • ここでは仕事と人生、或は生活ははっきり対立するものと考へられてゐるので、フロオベルにとって生きてゐることは無意味なことでありながら、僅かにそれを救ふものに仕事をすること、つまり、作品を書くといふことがあった。そしてこれは本当なのである。この世に生きることがこの世の秩序に自分を任せることであるならば、仕事といふのは何かの形で自分で一つの秩序を作り出すことであり、この二つは実際は両立せず、又それ故に、生きてゐることなどどうでもいいからこの仕事だけは完成したいと念じることにもなる。そしてさうやって出来上ったものは、それが一篇の小説でも、河に掛けた橋でも、或は学校でも何でも、それを手掛けた人間を離れてその人間のものではなくなり、後にはやはりこの世に生きてゐる一人の人間が残る。(39~40ページ)
◇ 船旅の楽しみ
  • 仕事は終って、我々がひどく健康を害してでもゐない限り、まだ心行くまで楽める余生が広々と我々の前途に横たはる。功成って、金はあるのだから、さあ、これから何をしませうといふ訳である。仕事はもう沢山で、それに似たことは一切、 こっちから断る。そして例へば、さういふ場合に船の旅といふものがある。今は誰もが飛行機を利用して、確かに飛行機ならば、二日か三日で行ける所を、用事もある時に一ヶ月も掛けて航海することはない。併しこれが用事ではなくて、ただの暇潰しならば、昔風の船の旅に越すものを見付けることはなかなか出来ないのである。船が横浜、或は神戸を出帆する頃は、まだ船旅のよさは多分に未来に預けられてゐる。併し日本を離れて何日かたち、それがヨオロツパ航路ならば、もう直ぐに香港だといふ位 の時になると、海の上で一月ももたもたする楽みが漸く解って来る。(42ページ)
◇ いつか必ず秋はやってくる
  • サマセット・モオムだか誰だかの小説に、或る女が封筒の上書きをする仕事に雇はれて、何百枚といふ封筒に宛名を書くのがいつまでたっても終らない気持で書き続けてゐると、不思議なもので、それが終る時には終るのだと話す所がある。さういふものであって、それが併し又、終る時にならなければ終らない為に、いつまでたっても続く感じがする。人生は重荷を背負ってどうとか言った家康も、そんな気持だったのだらうと思ふ。若いものを戒めるなどといふことよりも、それを言った時の家康の実感だったのに違ひなくて、長篠で勝ち、長久手で勝って秀吉と和睦した後も、大坂冬の陣、夏の陣はまだまだその先だったのだから、家康にとって人生が果てしなく続くものだったのは無理もない。重荷をどうとかするといふその言葉には、家康の溜息に似たものが混じってゐはしないだらうか。(77~78ページ)
◇ 狂騒のうちに明け暮れしているわれら
  • 我々は生れて刻々と、或は同じことながら月日を重ねて時間がたつて行ってやがては死ぬ。このことに太古以来変りはなくて、それは我々が人間であることに変りはないといふことであり、その生れて死ぬまでの時間が狂燥のうちに過されるのでも自分といふ人間であることの認識に基いてでもやはり日が暮れて夜になり、夜が明けて朝になる。或は狂燥のうちに明け暮れするのではこの夜と朝の区別も付かなくてそれは人間であることを止めるのに等しい。何故さうまでしてといふ所まで来てその先が解らなくなるのでさうまでしてどうしたいといふのだらうか。(99ページ)
◇ 本とのかかわり
  • モンテエニユは本を一時間以上は読まないことにしてゐたさうで、 さうすれば少くとも、本といふものから色も匂ひも消え失せるのを防ぐことは出来る。 本を、それもなるべく権威がある版の所謂、良書を無暗に買ってゐた昔は、どうも本は読むべきものといふ通念に取り愚かれてゐたやうで、図書館でも作る積りだったのならば、その当時集めたものは確かにさう捨てたものではなかった。併しそれを読むことには立派に失敗して、今思ひ浮べて見ても、友達に言ばれたり、目録で探し当てたりして買った本の中で、そこにはどんなことが書いてあったのだらうと好奇心を覚えるのが沢山ある。(131ページ)

■読後感

老年期に差し掛かった吉田健一さんの作品だが、人生の艱難辛苦や狂騒に明け暮れる世の中を観察して吉田さんらしい視点でわれわれへの導きを提示している。 よくよく味わいたい作品。