沼野充義『100分de名著/ソラリス』NHK出版、2017年12月

 

 

■内容【個人的評価:★★★--】

◇ 『ソラリス』は人間と人間以外の理性との接触の物語
  • ソラリス』という小説は、一言で言えば、人間と人間以外の理性との"接触"の物語です。主人公の心理学者クリス・ケルヴィンは、その表面を覆う海が意思を持つとされる惑星ソラリスの謎を解くため、ソラリスの海の上空にある観測ステーションにやってきます。しかし、そのステーションでは異様なことが起きており、そこにいた研究員たちの言動は不穏で、やがてクリスの身にもソラリスの海がもたらす不可思議な現象が起きることになります。 (6ページ)
◇ 『ソラリス』は、これまでの概念を超えたSF小説
  • しかし、『ソラリス』を読み始めて、私はすぐに理解しました。自分がいま手にしているものは、これまで読んできたSFのどれとも似ていない、何か根本的に違うものだということを。読み進めるうちに、これは特別に強い力をもって読者を引き込む作品であることがわかり、私は単におもしろいというよりは、むしろ、恐怖のような感覚を覚えました 。(6ページ)
スタニスワフ・レムの生い立ちと世界観の形成
  • レムの世界観の形成にとって、二十世紀の激動を東欧の〈辺境〉で、しかも国家に対する帰属が流動的になりうる民族の一員として生きたという経験は、やはり測りしれないほど大きいものがありました。レムの膨大な著作全体を一本の筋のように貫いているものがあるとすれば、それは人間の理性の限界を見定めようとする透徹したまなざしであり、絶対的なイデオロギーに対して懐疑的・相対主義的な見方をとることであり、理性の限界の外に広がる宇宙の驚異に対して自らを開いていこうとする姿勢だと言えるでしょう。それこそはまさに、激動の東欧史によって鍛えられたものに他なりません 。(13ページ)
社会主義ユートピアSF小説とレムのSF小説の違い
  • 社会主義的なユートピアSF小説では、 人類が到達した共産主義思想は普遍的なものであるから、宇宙でもそれが通用するはずだ、宇宙人のことも人間の理性で理解できるはずだと考えます。一方レムは、人間が築いてきた知性の体系では宇宙の未知は理解できない、と考えました。 人間には人間の理性があるが、宇宙の側にはその理解を超えた別の理性の体系があるかもしれないと考えたのです。 (20ページ)
◇ レムのSF執筆における問題意識-丹野義彦の整理-
  • 日本人の心理学者、丹野義彦は、レムはSFを書く際の問題意識として三つの問いを立てていると述べています。第一の問いは、私たちはどこから来たのかという「起源への問い」。第二の問いは、人間という存在はいったい何なのかという「存在への問い」。そして第三が、この世界の仕組みはどうなっているのかを解き明かすべき「認識への問い」です。これはすなわち科学のことです。 この三つの問いがレムには常にあったというのですが、『ソラリス』が傑作であるのは、この三つの問いがすべて重なり合っているからだと丹野氏は指摘しています。 (23ページ)
◇意思疎通のできない絶対的他者との出会いこそが『ソラリス』のテーマ
  • つまりこの小説は、意思疎通のできない絶対的他者との出会いと、それに対して人間の知性がどう振る舞えるかという物語になっています。そしてレムという人の知性は、このような絶対的他者に出会ったとき、それを拒否して背を向けてしまうのではなく、そこから逃げず、出会ったときの違和感に身をさらし続けるという姿勢を取ります。そのレムの姿勢が、この作品全体を貫いているのです。 (26ページ)
◇ 幽体ハリーの意思・感情-自我に目覚めるコピー-
  • 人間ハリーの単なるコピーであったはずのものが、実はそうではないと言い始めているわけですが、さらに、ハリーはここで「ひょっとしたら、あなたも?クリス!あなたもなのね?!」と言います。ここはおもしろい問い返しです。幽体ハリーは本物の人間ではなく、人間ハリーに似せてつくられたものですが、オリジナルの人間とは異なる意思や感情を持った存在になりつつあります。ですから自分はいったい何なのかがよくわからない。そんなハリーが、あなたは本物のクリスなのかと問いかけているわけです。 (64ページ)
◇ 理解不能な他者を前提とした小説
  • 社会主義リアリズムのSFであれば、人間の理性は普遍的なものなので、宇宙へ行ってもそれをもってコミュニケーションが図れることが前提になります。もしもその理性が適用できないような化け物が現れれば、それは理解する必要はなく、滅ぼせばいいということになります。それに対してレムの小説は、そもそも宇宙に出ていけば、そこには理解不能な他者が必ずいるというところから始まっています。人間の理性が宇宙全体において普遍的であるはずだという前提はないわけです。 (76ページ)
タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』に対するレムの見方
  • (レム)ええ、あれはまあ、映画が暗に示している方向というか、要するにタルコフスキーの解釈の問題でしたね。あの映画で彼は、宇宙や宇宙飛行に対して嫌気を起こさせ、それが好ましくない悪夢のような物事ばかりに満ちている領域だ ということを表現しようとしたんです。ところが、私は全然そうではないと思っていた。人類が宇宙に飛び出すことに対して、嫌気を起こさせるべきではまったくない。で、その点をめぐって議論になったわけです。これが第一です。 第二に、タルコフスキーは私の原作にないものを持ち込んだのです。つまり主人公の家族をまるごと、母親やらなにやら全部登場させた。それから、まるでロシアの殉教者伝を思わせるような伝統的なシンボルなどが、彼の映画では大きな役割を果していたんですが、それが私には気に入らなかった。でも映画化する権利はもう讓った後だったから、もういまさら何を言ってもタルコフスキーの姿勢を変えられる可能性はなかったんです。それで喧嘩別れになり、最後に私は彼に「あんたは馬鹿だよ」とロシア語で言って、モスクワを発った。三週間の議論の後にね。その後彼が作ったのは、結局、なんだか、その、あんな映画だったわけです。 (77ページ)
◇ レムの小説とタルコフスキー映画の違い
  • ソラリス』の最初の本格的な映画化であるタルコフスキー監督の「惑星ソラリス」は、レムが示した「異質な他者と向き合う」という姿勢とは、実はほとんど正反対の方向を向いた映画でした 。(91ページ)

■読後感

 『ソラリス』については、私もタルコフスキー映画を通じて知ることとなり、タルコフスキー映画の独特な世界観に強い印象を受けた。

しかし、この本を読むと、タルコフスキーの作った世界と原作者であるレムの小説世界はかなりの違いがあることがわかる。タルコフスキーは信仰や家族への回帰を終着点としたわけだが、レムは、わからないものをそのままに受け止めるというスタイルを選んだ。

解釈はいくらでもありうるわけで、決してタルコフスキーの世界が否定されるべきものとも思われないが、この本でレム作品の解釈を読みながら、ハリーの自我の目覚めと不安は『ブレードランナー』におけるレイチェルのそれを想起させるものだと思われた。