経産省若手プロジェクト『不安な個人、立ちすくむ国家』文藝春秋、2017年11月

 

不安な個人、立ちすくむ国家

不安な個人、立ちすくむ国家

 

 

■内容【個人的評価:★★★★-】

◇ 自分の「死」は考えてもあまり意味はない。むしろ「周り」に目配りすべき。
  • 経産省)人を殺すことについては「人は物理的に壊れてしまうと元に戻せない」というのに対し、自分が死ぬことについては「死ぬというのは、寝て、翌朝ただ起きなかっただけ」とあって、死ぬことに対する拒絶感というものがまったく感じられなかったのが印象的でした。
  • (養老)ちょっと極端かもしれませんが、少なくとも「自分の死」というものについては考えても無駄だと思っています。 気が付いたら死んでいるのであって、それは本人には気付きようがない(笑)。 だから、そんなこと考えても意味がない。 そして、それよりも重要かもしれないことは、他にある。 例えば、あなたが病気になったとします。 そうすると、今の人は「私は病気になった(だから大変だ)」と考えます。 もちろん、なった当人も大変かもしれませんが、そのことで困る人というのは他にもたくさんいる。 まず、世話をしなければならない奥さんが困る。 あるいは、あなたの仕事を肩代わりしなければならない同僚が困る。 そちらの大変さの方が、ひょっとしたら大きいかもしれない。 病気になった当人は苦しいから、往々にして、重病であればあるほど自分のことで精いっぱいになってしまい、周りのことなんて知ったこっちゃないという態度になりがちです。 でも、その時に一番困っているのは、じつは周りの人たちかもしれないということは、一応言っておいた方がいいと思うのです。 そう考えることで、病気というのは、必ずしも自分"だけ" の問題ではないという側面を理解することができる。 (55~56ページ)
◇ 旧世代は「目的」があってがんばってきたのではなく、ただ必死だった
  • (養老)旧世代は何か確固とした目的があって、今の若者にはそれがない云々・・・みたいに思っている人も少なくないと思うのですが、これは間違った認識だと思います。 例えば、団塊の世代以前の日本人は、過去の自分たちを「よくやっていた」と振り返りがちですが、見方によっては、ただ目先のことを必死になってやっていたというだけの話だったりします。 目の前にどうしようもないことがあると、とりあえず必死にやるしかない。 僕が子どもだった頃なんかは、言ってみれば考える必要がなかったのです。 明日の食い物どうすんだよ!?という世界だったので、国家がどうのとか考える余裕なんかありませんでしたから。 そうやってがむしゃらにやってきたのが戦後の日本です。 そして、そうした目先の問題が一応消えたからこそ、皆さんがレポートにおいて指摘しているようなさまざまな問題が見えるようになってきた-そういうふうに言うこともできると思います。 (66~67ページ)
◇ 日本人の国民性と「自発的選択」は相容れない
  • 経産省)日本人にも、「選択する」ということを、もっと教えた方がいいと思われますか?
  • (養老)良い悪いではなくて、僕は無理だと思いますね。 何というか、根本的に合い入れないような気がします。 僕自身もそうで、自分の人生を自分で選んできたという自覚はないですからね。 少なくとも「選択する主体」というものに対して、僕はそんなに確信を持ってはいません。 いずれにせよ、「選択の主体がある」という考え方を持ち込んだ瞬間に、「誰の責任だ?」という話になってくる。 だから、私は無理してそうした決め方をしなくても、日本人のメンタルに合った形で「落ち着くところに落ち着く」でも、別に良い気がしています。 「場の空気で決まったこと」というのも、ある意味で、たいへん日本的な客観性にのっとった結論ではありますからね。 (71ページ)
◇ネットを介したつながりとはすべて情報である
  • (養老)上手く説明するのが難しいのですが、facebookやLINEといったインターネットを介した繋がり方というのは、僕は共同体というものとはちょっとズレているように思うのです。 まったくの別物と言いますか。 極端に言えば、ネット上でやり取りされるものは、すべて「情報」だと思っています。 本来的な意味での人付き合いというのは、顔が見えるコミュニケーションです。 つまり、物理的な意味においても、精神的な意味においても「表情が分かる」ということが大きい。 ネットだと、そういう部分が抜け落ちてしまいますし、表情などといった生々しいものは、そこではノイズでしかないのだと思います。 (76ページ)
◇ ミクロ経済理論は生きた個人を捨象してしまうが、重要なのはモデルではなく実態
  • (冨山)例えば、マクロ経済政策を志向する経済学者などは、このレポートを批判するでしょう。 でも、マクロの数字をこねくり回して、ああでもない、こうでもないという議論をしていても、それは結果でもって結果を語っているということでしかなく、あまり意味がない。 マクロ現象というのは、ミクロ現象の積分値です。 そして、本当のミクロというのは、ミクロの均衡論の問題などではなく、市井で起きている「現実の現象」なのです。 それは、例えばL(ローカル)の世界で生きている人たちの行動様式であったり、生活観であったり、人生観です。 経済的な生き物として、彼らがどういう行動・振る舞いをして生きているか、それこそが重要です。 そこをすっ飛ばして数字いじりに終始してしまうことは、現実社会において、ほとんど無意味なことだと思います。 極端なことを言ってしまえば、経済学を含めて、今の社会科学というのも、その次元からもう一回再構成した方がいいと考えています。 (111~112ページ)
◇ 「役職が高いこと」と「人間としての格」をつなげる日本社会
  • (冨山)これまで、たくさんの企業の経営改革に携わってきましたが、こういうケースの人事をした時は「耐えられない」という抗議の声をたくさんもらいました。 「冨山さんは日本のサラリーマンの心情を分かってない!」と。 でも、それはちょっと違うんじゃない?とも思うのです。 会社で偉くなるということが、イコール「人間として偉い」みたいになっているでしょう? 会社内でのポジションというのは、あるミッションをこなすために与えられるものです。 でも、その仕事から離れたら、役職も関係なく、ただの人でしかないはずなのです。 それなのに、日本の社会というのは、すぐ「高い役職=人間として格が上=人格的に高潔」みたいに考えてしまう。 (126~127ページ)
◇企業の命運は経営者が握っており、優秀な経営者は稀有な存在である
  • (冨山)結局は、経営者の能力が高ければ延命できる。 できなければ潰れる、それだけだと思います。 一般的に、能力の高い経営者というのはすごく少ないのです。 努力して能力を高めることももちろん可能ですが、現実問題として、優秀な経営者は希少資源だと最初から思っていた方がいい。 それくらい、本当の意味で優れた経営者というのは稀な存在です。 ゆえに、旅館でも店舗でもそうですが、そうした優れた経営者にどんどん経営させた方がいいと思います。 優秀な経営者のもとに集約していった方が-つまりグループ企業化していった方が、いろいろとスムーズにいくのではないでしょうか。 (136ページ)
◇国家の関与はクリエイティブな部分には不向きである
  • (東)僕が理想とする社会像は、国民の最低限の市民生活が保障され、安全保障がきちんとしていることであり、そしてそれだけというものです。 学問的には「最小福祉国家」と呼ばれるものです。 国は国民の価値観に手を出さない。 クリエイティブな部分や、文化的な部分は、なるべく民間に委ねる。 言い換えれば、民間に委ねた結果、ある文化が滅びることがあったとしても、それはやむを得ないと思って受け入れる。 もちろん、最低限の福祉には文化も含まれる。したがって「文化的な活動も含めた最低限の国民生活」をいかに国家が保障するかが問題になりますが、その時に、国家が保障する「文化的生活」というのは、ある程度画一的でつまらないものにならざるを得ないし、それでよいと思います。 そもそも、先端的なアートや音楽、あるいはサプカルチャーでもいいですが、国がそういったものを支援するというのは無理があります。 それらはマイナーなんだから、国民の納得を得にくい。 国民が公に求めているものというのは、あくまでも価値中立的なものです。 誰もが納得するものへの投資しか国民のコンセンサスは取れないので、「すごくとんがった才能を持った人がいて、そいつに投資しておくと日本の未来が開ける」みたいな考え方は、もう通用しないと考えた方がいいでしょう。 (179~180ページ)
◇国家や会社の本質は「家族」として捉えることで見えてくるものがある
  • (東)僕の本は、家族というものをもっと抽象化した概念にするための第一歩的な仕事なのです。 現実の家族というと、男と女が1対1で結婚して子どもを産んで-みたいなものを想定してしまいますが、メタファーとして家族というものを捉えると、さまざまなものを「家族的」な集団として考えることができる。 昔は、国家や会社といったものも、家族として認識されていました。 ところが、いつの間にかそういうタイプのメタファーは古くて危険で、人有を抑圧するものとして忌避されるようになった。 だから今、多くのひとは家族なんて言いませんし、言ったら学問的におかしいヤツとして認定されてしまう。 でも僕は、国家や会社の本質は、むしろ家族として捉えた方が見えてくるはずだと思ったんですね。 (196~197ページ)
◇このレポートが提示した「高齢者から若者へ」という支援の重点シフトは基本的に実現不可能
  • (東)レポートが示唆するように、高齢者の年金やら何やらをカットして若者に付け変えるということが可能であれば、それは僕だってそれがいいと思いますよ。 でも、それをどうやって実現するのかという部分については、レポートでは答えは出ていないし、おそらく出しようがない。 例えばこのレポートがネットで出て、多くの若い人たちが「いいね!」をたくさんクリックしてくれたかもしれませんが、それが何か政治的なカになるかといったら、まったくならないでしょう。 もちろん問題提起は大事だと思いますが、シルバー民主主義の話はずっと繰り返し議論されている。 そして何も解決できない。 制度設計を変更しようにも、あまりに根本的なところに問題の原因がある。 まさか高齢者から選挙権を奪うわけにもいかない。 そして高齢者は確実に増え続ける。 別にことさらネガティブに考えているわけではありません。 ネガティブというより、単純に僕はリアリストなんですよね。 現実的に考えて、今の選挙制度の中では、日がな一日テレビを観ている高齢者をターゲテイングした方が票を取れるわけでしょう? 政治家からすれば、そうした高齢者のライフスタイルをとやかく言うインセンテイブはまったくない。 他方でテレビは不倫報道だらけで国民の愚昧化が進行中・・・この状況をどう変えるのか? 逆に僕が聞きたいくらいですよ。 革命やクーデターを考えるなら話はベつですが、みなさんもそういうことを考えているわけではないでしょう。 (204~205ページ)

■読後感

この本では、前半がレポート部分、後半が有識者との座談会として養老孟司、冨山和彦、東浩紀との対談が掲載されています。

引用では有識者との座談会のみとしましたが、前半部のリポートにおける提言は型破りでかつ伝え方も効果的であったと思います。型破りというのは、若年層への支援をというのみならず高齢者施策からのシフト(「あれもこれも」=高齢者も若年層もではなく、あれかこれかへのシフト)、ある意味では現役世代のみならず高齢者も若年層を支える主体となるところです。また、統計数値・グラフを活用して、いわゆる伝統的な人生すごろくが崩壊しつつあること、高齢者が、意欲はありながら日がなテレビを見て過ごしているのが実態であること、一人当たりGDPと幸福度の連関性の薄さなどを効果的に伝えています。また「二度目の見逃し三振は許されない」というキャッチフレーズも印象に残りました。

このレポートは、よく書いたなあと思いつつも、後半の座談会でも指摘のあるとおり、議会制民主主義においては、結果として大きな舵を切ることは難しい(=二度目の見逃し三振は避けられない)こともまた事実と思われます。

後半の座談会では、「日本をどうするか」より大きな捉え方をした経産省若手プロジェクトレポートに対し、視点をミクロに寄せるとともに、国家の役割というものをある程度限定されたものに捉える識者とのやり取りが興味深いものでした。ここでは「国家を変える。組織を変える。」ではなく、「視点を研ぎ澄まし、従来当たり前と思われてきたことを疑問を持って捉えなおす」へのシフトが提言されているように思われました。