西部邁『保守の真髄-老酔狂で語る文明の紊乱』2017年12月、講談社現代新書

 

 

■内容【個人的評価:★★★★-】

◇ テクノロジーの原語である「テクネー」の意味は「生活の知恵」だった
  • 知識社会学を論じたM・シェーラーによれば、古代アテネにあってテクネーと呼ばれていた活動は現代のテクノロジーとは様相を異にしていた。 テクネーは、いわゆる「魂への配慮」のことを含めて、人間の生活全般における何ほどかパターン化された工夫のことであったらしい。 具体的にいえば、家族や友人との付き合い方、仕事上の仲間との折衝の仕方、自分の属する共同体への参与のやり方などすべてを含めてテクネーと呼ばれていたのである。 だからそれは「生活の知恵」といったものと同じことであったのだ。 しかし今のテクノロジーは、そのテクネーのうち形式化と計量化の容易なもののみを発達させたところに成り立つものにすぎない。 だからこそ、それはテクノ(技)のロジック(論)と呼ばれているのである。 問題は人間の生活が技術などによって全面的に形式化と計量化を受けるような単純なものであってよいのか、それは人間のロボット化・サイボーグ化にすぎないのではないか、という一点である。 (22~23ページ)
◇ イノヴェーションは短期的には便利であっても長期的には人々を危機に陥れる
  • 経済についてみると「イノヴェーションの歓迎」と「豊かさのひたすらなる追求」が日本の近代経済を彩ってきた。 すでにみたようにイノヴェーションは短期的には便利なものであっても、長期的には人々の経済生活を混乱させ、経済の未来展望を危機に陥れる。 そもそも経済とは、「国家における経世済民(世を助け民を救うこと)であり、それを英語でエコノミーといってもオイコス(家)のノモス(在り方)を健全なものにすることを指す。 その経済の根本すらが忘れられてきたのである。 加えて、物質面における富裕を至上の価値とするのには(古代ローマでいわゆるストア派つまり禁欲主義派の指摘した)いわゆる「快楽主義の逆説」がつきまとう。 つまり豊かになればなるほど、まだ実現されていないわずかな豊かさについてかつてなく不満が募るのである。(53ページ)
◇近世において日本における宗教は、哲学を切り離した単なる儀礼として広まった
  • その末期にF ・ザビエルの運び込んだ(ジェスイット派のカトリック)キリスト教が、とくに「パライソ(天国)」の思想をこの列島に注入しようとした。 しかし、ジェスイット派のユニヴァーサリズム(普遍主義)のうちにスペインやポルトガルの覇権意志が張り合わされていることを見抜いた秀吉や家康によって、その西洋の宗教は禁圧された。 私見ではそうするのが日本にとって必要であり有益ですらあったと思われるが、しかしそれと同時に国内では、宗教への政治介入のせいで、宗教のすべてが単なる儀礼へと堕ちていったことを見逃すわけにはいくまい。 それのみならず信仰、なるものが単なる個人心理の次元に押し込められ、信仰が絶対・超越・崇高の次元を仰ぎ見る信仰願望集団のカピナント(盟約)として成立する、という宗教と社会とのかかわりもまた見過しにされるととになった。 とくに問題であったと思われるのが、その「盟約」において展開されるはずのいわばカテキズム(教理問答法としての宗教哲学つまり神学)がこの国で発達せず、理と切り離された心の問題のなかに信仰が封じ込められた、という経緯ではなかろうか。 (62~63ページ)
◇ 日本明治期における武士道の衰退とその後の百家争鳴
  • しかし、新渡戸自身がその書の序文で認めているように、明治三十二年においてすでに武士道は姿をほとんど消していたのである。 明治の初めから、開化に揺れる日本人の不安の心理は樋口一葉、などによって鋭く表現されており、その流れの果てで、夏目激石はその最晩年にあって、『現代日本の開化』という講演で、日本の近代化が「外発的であって内発的ではない」ことに警鐘を鳴らしたのであった。 森鴎外も日本の歴史という土壌にみずからの物語を植えようとしていた。 明治、大正、昭和の近代を総じていえば、その日本人論は「百家争鳴」というか「様々なる意匠」(小林秀雄)というか色々な思想実験が入れ替わり立ち替わり現れたにすぎない。(68~69ページ)
◇ 役人は半ばは政治家である
  • 誰も指摘しないことだが、公務に従事するという意味で役人は半ば政治家なのである。 ポリティックス(政治)とはポリス(国家)の運営についてポリティック(賢明)な態度を持すことにほかならない。 その意味において役人の実質の半ばは政治家なのである。 -だから、抗弁の権利をあまり持たない役人にパッシングを加える近年の風潮ほど有害なものもない-。 役人は選挙の洗礼を受けない半政治家であるといってもよい。 というより、選挙によって言動を過度に左右され難い役人がいればこそ、国策における一貫性が可能となるわけだ。 その意味において政治は選挙という落ち着きのない制度から半ば自由になっておれるのである。 逆にいうと、そうであればこそ、役人の専横を許さないよう選挙で選ばれた代議士はつねに気を配っていなければならないということになりもする。(91ページ)
◇ どこまでも勤勉で面白みのないジャパニーズ
  • 冗談とも聞こえようが、例をマルクスにとると、彼は「一日は二十四時間である」と確認している。 つまり、睡眠や通勤や食事の時間などを除いて、十二時間くらい残ったとしてみよう。 その十二時間を「勤労と社交」にいかに振り分けるかが問題となる。 換言すると「金銭・技術への順応」と「会話・文化の実演」のあいだの切り替えをいかにやるかという選択問題が重要となる- 述者のささやかな体験にもとづいていうと、イタリア人はその切り替えがまことに上手である。 それにたいしてジャパニーズはその切り替えが下手で、喫茶店でも酒場でも仕事の延長話しかしないといった調子だ-。 (187ページ)
◇合理的期待形成仮説の危うさ
  • 政府と民間の違いは、前者が国家や世界の全貌とそれらの長期動向を見渡す立場にいるのにたいし、民間はおおよそセルフインタレスト(自己利益)にのみ関心を寄せて、セルフインタレステドな(自己に関連した)事柄にしか興味を示さない。 すべての民間人がそうだとまではいわぬが大概の民間人はそういうものなのである。 それは、人間の生来の資質というのではなく、人間のおかれた立場からしてそうなるのである。 -マーケットが文明の素晴らしき発明品とされるのも、A・スミスが説明したように、こうした「自己愛もしくは利己心の社会的調整」の機構としてなのである-。 合理的期待の考え方は、個別経済主体が経済社会の全体的な成り行きを考えて行動するというのであるから、「市場によるセルフインタレストの調整」という考え方を真っ向から否定しているのである。 合理的期待が莫迦話だと察すれば、政府によるインディカティヴ・プログラムが、法律的および政治的な規制力を発揮して、危機に満ちた未来にたいして何ほどか確かな道標を打ち立てることができるし、そうしなければならないということになるはずだ。(196~197ページ)
◇ 日本における保守思想は文学者によって細々と受け継がれている
  • 保守思想とて同じととだ。滅びゆき忘れ去られていく伝統を取り戻さなければ人間は意義ある人生を送るわけにはいかない、と保守思想はいわんとする。 だが伝統はすでに消滅しているに等しいのであるから、保守思想にあっては現代人はすでに死んでいるとみなさざるをえない。 死んでいるものに生き返って自分の墓石を担げというのは矛盾以外の何物でもない、少なくとも論理ではそうなってしまう。 といった次第で保守思想は文学的センスをもって現代における伝統喪失の悲惨について逆理をもって鋭く抉り出そうとするのである。 その意味で保守思想には文学的センスが不可欠なのであるから、日本の保守思想が文学方面の人々によってかろうじて支えられてきたというのは当然の成り行きとみなければなるまい。 (240ページ)
◇ 保守思想には概念が不足しており社会科学に対抗できない
  • 日本の保守思想の系譜にあっては、社会科学におけるチャチな概念の氾濫に抵抗してのことだろうが、自分らの思想を支える慨念を打ち立てる努力があまりにも少なく、文学的なレトリックに頼りすぎているように思われてならない。 レトリックが文なるものの生命線だとわかつてはいるものの、しかし、概念化の作業がなければ、良きレトリックは「語り部の名人芸」になってしまう。 社会科学などというものは大した代物ではないのだから、それらの全貌を見渡した上で社会科学的諸概念に対抗できる概念を樹立すればよかったではないか、との不満を述者は拭い切れないのである。 自己宣伝をする気は毛頭ないが、述者はそのことを絶えず気にしながら保守思想を語ってきたつもりである。(242~243ページ)
◇ 選べない死を選ばざるを得ない現代人
  • 経済や政治のワールドワイドの恐慌をすら招来しつつある技術システムのなかで、「生の錆ついた果ての死」の数が増えているに違いない。 その結末がどうなるか。 それをみる余裕が与えられていないのが残念なのか安堵なのか・・・いや、そんなことを高見の見物めいた調子で喋々してはいけまいのが臨死もしくは瀕死の(つまり万事を後生に任せるしかない)立場にある者の、節度というものであろう。 ・・・もう一言、二言を付け加えたい気持ちが残りはするものの、それを抑制するのもまた節度を守るということであるに違いない。・・・(おわり)。(263ページ)

■読後感

私自身、『大衆への反逆』を読んだ学生時代以来、『ソシオ・エコノミクス』など西部邁さんの著作に親しんできた。 テレビによく登場するようになってからは少し遠ざかったが、明晰で力強い語り口ははっきりと印象に残っている。

社会科学、なかでも経済学を通して社会を見つめてきたわけだが、なんとでも立論できる社会科学の怪しげで「チャチな」モデル設計には一貫して否定的な態度をとってきた。 また、テクノロジーの進展がそもそも人間に何をもたらすのか、それはロボット化でありサイボーグ化であることへの警鐘も鳴らし続けてきた。 つまりは怪しげな言説がまかり通り、そして人間が衰退していく現代大衆社会の行きつく先を悲観をもってとらえていた。世間にさまざまな「神話」が流布される中、西部さんの言葉を振り返り、現実を見て、神話を疑ってみることが大切ではないか。

また、自身は去る1月21日に多摩川で入水自殺され、この著作が最後の語りとなった。 今般の自裁死に関しては何も言うことがないが、体調なども思わしくないなかで「自分で決める」という態度を貫いた結果かと思う。