岩井克人(聞き手:三浦雅士)『資本主義から市民主義へ』新書館、2006年8月(その2)

■内容【個人的評価:★★★★−】
○法人論

  • ジョン・ローは『貨幣と商業』という本を書いているが、それを読むと、貨幣はデファクト・スタンダードであるということを百パーセント理解していることがわかる。ローはケインズを思わせる天才である。時代を超えた根源的な原理を見いだしている。
  • 言語ができたとたんに人間は「主体」であるとともに「客体」でもあるという二重性を持つようになった。法、貨幣についても同じである。フランス人権宣言では、人間は誰にも所有されない自立した主体になった宣言しているわけだが、別の見方をすると、これは人間が自分自身を「モノ」として完全に所有していることを示すものである。
  • ポストモダンは、中心がなくすべてデファクト・スタンダードで成立している社会であるといってよいが、これこそは人間社会の始原的形態でもある。
  • インド・ヨーロッパ語で交換価値を表すもっとも古い言葉は「アルファ」であるが、これは基本的に奴隷の価値を意味していた。
  • 法人論争は同時に国家論争でもある。国家に関しては、「社会契約説」と「有機体説」があるが、これは、法人論争で言うところの「法人名目説」と「法人実在説」に対応する。「社会契約説」では、近代社会は社会契約に始まるという主張を展開しているが、実態としては契約なんか誰も行っていない。
  • 資本主義社会では、各人が自分の利益のみを追求していれば社会的に望ましい状態が自動的に作り出されると考えられてきた。しかし、資本主義社会にそうした状態を実現するためには、絶対に「倫理性」を必要とするというのが自分の主張である。例えば医者と患者、弁護士と依頼人、ファンドマネジャーと投資家の関係は、たんなる「契約」でなく「信任関係」がなければ、双方にとって期待する結果を実現することはできない。もっとも根源的な人間の関係は契約関係でなく信任関係なのではないか。契約とは信任の派生形態ではないか。
  • 自分につくったモノは自分に帰属すべきというのが労働価値説の考え方である。しかしポスト産業資本主義の時代には労働価値説が成立していないことが事実として明らかになってしまい、誠実に働いていれば倫理的、ということが成り立たなくなってしまった。しかし、この状況を迎え、はじめて何が本当の倫理性なのか問えるようになったのではないか。人は死すべき存在であるということがカギとなるのではないかと考えている。最終的には非常に常識的といわれるかも知れないが、カントのいう意味での定言命法による倫理に行き着くのではないか。

○信任論

  • ライブドア堀江貴文という人物が引き起こしたニッポン放送の買収劇は、まさに自分の書いたことが現実として起きたという印象だった。株主主権論の体現者であったともいえる。
  • 堀江貴文が「おカネで買えないモノはない」というのは正しいが、いっぽう「おカネではモノしか買えない」モノとしての会社は買えても、ヒトとしての会社は買えないのである。
  • 会社の枠組はすべて私有財産制の中で成立している、すなわち「株主がモノとして会社を所有し」「会社はヒトとして資産を所有する」という構造である。
  • 『不均衡動学の理論』では、新古典派の理論的枠組の中で、これを厳密に理論構成すると市場経済は本来的に不安定であると証明することとなった。一方『貨幣論』では、マルクスの理論の枠組を徹底化すると、労働価値説が崩壊してしまうことを論証した。「会社」に関する研究においては、資本主義経済の一番の根幹は自由主義でも個人主義でもなく私有財産制であるということに基礎をおき、ヒトはモノを所有するということが会社において二重の鎖を構成していることを論じた。これをふまえ、株主主権論を否定したのである。
  • 法人=ヒトとしての会社とそれをヒトとして動かす存在である代表取締役との間は契約関係には還元できない。ここに「信任」という倫理を入れて説明した。つまり、自己利益追求で成立しているシステムが必然的に倫理性を必要としているということになる。
  • 財団法人、これは寄付行為によって成立するが、たとえば財団法人が運営する美術館は寄付者のものではない。寄付されたおカネが法律上はヒトとしての位置づけを得る。財団法人も企業と同じようにモノである会社をヒトとしてふるまわせるために理事という生身の人間を必要とする。財団と理事の関係も必然的に「信任」を必要とする。
  • 否定、抑圧は人間というものの二重化、ヒトであるとともにモノでもあるということと密接にかかわっている。フロイトは否定を消極的な意味としてとらえたが、ラカンケインズはそこに空虚、無、ゼロへの積極的な欲望を見いだしている。
  • ケインズは、貨幣そのものは、「金属のかけら」や「四角い紙切れ」であるということで、本来は欲望の対象にならないものであるが、すべてのモノを手に入れるための可能性を与えてくれる手段であるから人はそれを手に入れようとする。つまり「可能性」をあたかも実体的なモノであるかのように欲望するというところから自身の貨幣論を作り上げた。「モノ」でなく「モノを手に入れる可能性」を欲望するということである。この欲望(流動性選好)の存在が、資本主義に恐慌やハイパーインフレーションをもたらすことになる。
  • 近代になってはじめて「ヒトはモノではない」という人権宣言が出されたわけだが、逆にいうと、それまで「ヒトはモノでもある」という考え方をされていたことがあらわになった。
  • 言語・法・貨幣は人間存在の根源であるが、これは遺伝子に書き込まれているわけではない。これは連綿とした文化に支えられている。言語・法・貨幣は人間を人間にするものであるが、人間社会がなくなれば消え去ってしまう。お互いがお互いの外部であるという関係である。
  • 「貨幣商品説」は、そもそも貨幣が多くのヒトの欲望対象であったから貨幣となったということ、一方で「貨幣法制説」とは共同体や国家や王様があるものを貨幣と定めたから貨幣となったとするもの。つまり貨幣を自然な存在とするか、人為的な存在とするかという違いがある。しかし、どちらも貨幣の自己循環論法の一方向の因果関係のみを主張している。この二つの因果関係が同時に成立したとき、貨幣は貨幣として成立する。法でいえば、自然法主義と法実証主義の対立は同じ構造を持っている。

市民社会

  • カントは、仮言命題による倫理は真の意味での倫理ではなく、定言命題(外部からの根拠付けを必要としない)による倫理のみが倫理であるとした。定言命題というのは自己循環論法のことである。
  • ゲーデル不完全性定理は、たとえば「すべてのクレタ人は嘘つきだと、あるクレタ島人がいった」という話を、数学的に、その体系のなかでは真偽を決定できない命題があるという形で一般化したものである。しかし、この定理が重要なのは真理の新たなあり方、つまり真も偽も決定できない命題があるということは紛れもなく正しいということを示したことが重要である。
  • 真理には、ユークリッド幾何学のように「与えられた公理から一つひとつ定理を積み上げて到達する」真理と、自己循環論法による真理がある。前者は構築される真理であり、後者は発見される真理である。後者はそれを公理としてその上に定理が築かれることになる。
  • 市民社会の最低限の条件は基本的人権の確保だが、基本的人権とは、カントの定言命題の法律的な表現にほかならない。
  • 市民社会論を立論するにあたり、まず、会社の二重構造をふまえて株主主権論を批判し、経営者について信任論を展開し、ポスト産業資本主義社会の利潤の源泉がヒトにあるという議論を提示した。そして市民社会論では、資本主義にも国家にも還元できない人間と人間の関係を市民社会であると考えている。自己利益、国家の一員としての責任以上の責任を感じて行動する人間の社会であるということである。
  • 基本的人権、国家、これに対し幻想という言葉は使いたくない。たしかに虚構としての面は抱えているがあくまで実体であり、これを基礎としていくべきものである。

○人間論

  • 貨幣、法、言語は自己循環論法によって成立しているが、半面、貨幣なら価値を持ち、法は権利と義務を確定し、言語は意味を伝えるという社会的実体である。
  • ナチス民族浄化思想が遺伝決定論を用いたこともあり、「遺伝がその人間を決める」ということに対し否定的(社会環境が人間形成に占める役割がより重要であると考える)な立場が優位を保ってきたが、性格、道徳感情、アルコールや薬物への依存性などで遺伝の重要性を否定することは不可能である。では、何が遺伝に還元できないか、それは言語・法・貨幣の存在である。
  • 貨幣の自己循環論法とは何か。例えばリンゴの場合、リンゴの生産者はリンゴを他者が欲するから生産する。これで終わってしまう。しかし、貨幣の場合は、さらに一歩進む。貨幣が価値を持つのはそれを他のヒトが価値を持つものとして欲するからだが、ではなぜその他のヒトがほしいと思うのかというと、さらに他のヒトがほしいと思うからということで、実体的な意味での人間の欲求がどこにも介在しないのである。
  • 資本主義にとって「恐慌」と「ハイパーインフレーション」とどちらが根源的な危機か?それは後者である。ハイパーインフレーションは、資本主義の基礎にあり、しかも自己循環論法でしか成立しない貨幣を、誰も受け取らなくなってしまう状態である。こうした経済の病理は精神病理のあり方とそっくりである。恐慌はうつ病であり、ハイパーインフレーション精神分裂病である。
  • 市民社会とは、国家と同一視されることがあるが、どちらかというと「貨幣による資本主義社会」、「法による国家」を補完する存在ではないか。
  • たとえばNPOの活動は、市民社会活動として認知されると、国家の法に主張が権利が認められたり、経済活動として軌道に乗ると資本主義社会に吸収されたりしていく。しかしそのことで活動が消えるわけではなく、さらに高度の自由や博愛、倫理性を求める活動につながるものとしてとらえられる。
  • 憲法と一般法は異なる。民主主義自体が危うさを持っているからこそ、人間の基本的権利に関するルールは憲法として長期に固定させておくということである。国民投票にはかけない、押しボタン制にしないということが重要である。
  • 資本主義は本質的に矛盾を抱えた体制である。この安定性を確保するためには「非市場的制度」が必要であり、法人に必ず必要となる経営者
  • に「信任」という形で倫理的行動が要請されるということなのである。
  • 社会のすべての関係を「契約」に還元しようとする動きが法学の中にであるが、医師と患者の関係など、さまざまな関係の中で絶対的に「非対称性」がある関係においてこうした考えは軽々に持ち込まれるべきでなく、倫理性を裏付けとして持つ信任を置かなければならない関係が社会には多くあるのである。

■読後感
まず自分が中央銀行の仕組み、どうやって紙幣を刷り、流通させ市中の金融量を調節するのか理解することが必要。
どうしても頭の中に古代→中世→近代→現代という「発展」史観があるために素直に読みこなせない部分がある。ここでの立論は、発展ではなく、違う形態の資本主義体制が時代によって現れ方を変えているというもの。