市川團十郎『團十郎の歌舞伎案内』PHP研究所、2008年4月
- 作者: 市川團十郎(十二代目)
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2008/04/16
- メディア: 新書
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- 最近歌舞伎を観るようになったが、少々退屈なこともある。
- 見方によっては、直接観るのとは違った面白みを感じることができるかもしれない。
○第一幕「團十郎でたどる歌舞伎の歴史」
- 江戸時代のはじめに歌舞伎は生まれたが、関ヶ原の戦いにおける勝敗が、「東は荒事、西は和事」というように歌舞伎のあり方にも影響を及ぼした。
- 出雲阿国の歌舞伎踊り、遊女歌舞伎、若衆歌舞伎を経て野郎歌舞伎が生まれた。このころ初代團十郎は成田山の近くで生まれている(1660年)。
- 團十郎は荒事で有名である。荒事については「荒唐無稽」という形容がされることがよくある。そうした側面もあるが、物語や一つひとつの台詞にいろいろな薀蓄や引用がある。
- 千両役者、1年に千両もらう役者で、後世になると千両役者がたくさん現れた。しかしそこで稼いだ金は何十人ものスタッフに分配されることとなる。
- 初代團十郎が殺され、二代目團十郎は、「助六」や「矢の根」(両方ともに曽我兄弟の仇討ちに関するもの)を作った。滑舌も良かったらしい。
- 四代目は細面で、悪役をよく務めた。人形浄瑠璃全盛の時代で、歌舞伎にもこれを取り入れようとした。
- 五代目は文化人との付き合いが多かった。贔屓筋との関係をうまく築いていった。
- 七代目は文化文政期で、中興の祖といわれる。鶴屋南北の『東海道四谷怪談』、河竹黙阿弥『白浪五人男』などの狂言や、清元の舞踊をよくし、松羽目物(勧進帳など、本舞台の奥に、能の舞台のような松が描かれた板を使う)や歌舞伎十八番の制定を行った。
- 九代目は明治の幕開け期に活躍した。江戸歌舞伎は見た目の華やかさが重んじられたが、明治期はどれだけ真実に近いかということが重要視された。劇場も、魚河岸の日本橋から新しい文化の中心になる築地に新富座を構え、移転した。
- 十一代は松本幸四郎家から移った。ただ、襲名後三年半しか生きなかった。團十郎という名のもとでいろいろと悩みも抱えていたようである。
- 自分(十二代目)は、現代の人々にあった義太夫狂言を作りたいと考えている。
- 歌舞伎は演劇か芝居か?これに対して自分は芝居だと思っている。演劇と芝居は根本的に違うと考えている。
- 荒事で作る拳固は、親指を中に入れる。赤ん坊の握り方と同じである。
- 三味線が登場することで芸能は一変した。それ以前の琵琶は、リズムはあるが三味線のようにメロディを奏でることはできなかったのである。
- 鳴神:まじめな上人が色香に迷うから面白い。
- 毛抜:髪が逆立つところがあるが、じつは木を使って逆立てており非常に頭が重い。
- 勧進帳:それまでの歌舞伎が「動」を重んじていたのに対し、「静」で表現している。アメリカでは評判がよくなかった。富樫はどの時点で義経と分かるのか。これは最初からわかっているのだと思う。最初のわくわくする雰囲気、関所を通るときの緊張感などが何ともいえない。
- 暫:権五郎景政の衣装は60キロもある。いろいろな要素があり、顔見世にもってこいの内容。
- 助六:江戸庶民の願望が詰め込まれている。とくに下駄が花道で滑りそうになるが、下駄特有の音を消してはいけないので、滑り止めなどはつけずに演技している。
- 寺子屋:人形浄瑠璃であった。人形浄瑠璃のころはお客さんが泣いていたようである。個人と体制の葛藤に共感される時代となっていた。
- 勘平腹切(仮名手本忠臣蔵):六つの財布を自在に扱わないといけない。
- 東海道四谷怪談:歌右衛門はすごい。幽霊として現れると、本当に風が吹くようだ。
- 三人吉三巴白浪:若いころ15分で終わらせたことがある。昔は、台詞は「聴かせよう」とするより、割合「さらさらと言っていた」のではないか。
- 河内山、直侍:蕎麦を食べるシーンがあるが、その蕎麦が伸びきっていて先代が怒ったことがあった。
いろいろなエピソードがちりばめられていて面白い。
とりわけ「勧進帳」「助六」「暫」については改めてみてみたいと思った。
團十郎のいう現代にあった歌舞伎、台本・言葉の使い方からすべて現代風にするということか?そのイメージまでは結べなかった。