大庭健『「責任」ってなに?』講談社現代新書、2005年12月

「責任」ってなに? (講談社現代新書)

「責任」ってなに? (講談社現代新書)

■読むきっかけ

  • 責任という言葉を、自分は比較的簡単に使ってしまっている
  • 何か起きるときには必ず複合的な要因がある。ここにおいて、これは「自分の責任です」「あなたの責任です」という条件とは何か考えてみたい

■内容【個人的評価:★★★★−】
○第一章「責任という概念」

  • われわれが「責任」という言葉を使うとき、それはどこかしら告発・非難・弾劾といった雰囲気を持っており、過去の悪行・過ちを償う義務といった意味を帯びている。
  • 責任という言葉には、法的な弁済義務という要素だけでなく、親の子にたいする責任などは、方向が過去でなく将来に向かっている。
  • このように、立場・役割をふまえた配慮義務という側面が責任という言葉にはあるが、それは過度に社会化された人間を前提としてしまっている。責任を「役割の遂行義務」ということに帰してしまうのは個人を役割の束に解消する見方に傾きすぎている。
  • たとえばナチスの将校は、役割だからということで大量虐殺を行った。ナチスの論理がすべてであった当時においては、彼は責任を逃れられるのか?彼は、なぜ自分を殺すのかという囚人のまなざしを黙殺した。人間のあり方として問いかけに答えなかった。これこそは責任を果たしていないということではなかろうか。問われたら答える、これが責任の本質であると考える。
  • お互いがお互いに持っている期待を裏切らない、信頼の関係を継続することが責任である。呼応可能な間柄を作り出し、維持し、発展させていく態度こそは責任の核となるものである。責任は法的領域でなく本来はもっぱら倫理的領域に存在している概念である。

○第二章「責任と自由」

  • 世界の物事は原因・結果のつながりにより生じている。人間は自分の行うことを自由に選択できる。
  • しかし因果的決定論は複雑な過程においては成り立たない、したがって責任に関わる実践は成立しうると考えられる。

○第三章「責任の主題」

  • 行為をするか手控えるかという選択肢を前になされた選択Sに関して
    • 1.他のように選択できた
    • 2.他のように選択していたら、問題の帰結は避けられた
    • 3.選択Sがなされて、なお帰結が生じないということは考えられない
  • という三つの条件が成り立つのであれば、行為者はその帰結について責任がある。

○第四章「責任の主体」

  • 誰が責任を負うか。個人か、組織か。組織の中では末端が負うのかトップが負うのか。
  • 個人は同一性を持つが、集団もメンバーや方針も入れ替わるが同一性を持ち、権利を行使し、義務を果たす。(法人)
  • 集団の成員である自分は、集団内部と集団外部に対し責任を負っている。
  • 烏合の衆が行ったことにしても、その集団のメンバーである限り責任は生じる。
  • 最近は役割を演じる自分とほんとうの自分を切断したがる傾向にあるようだ。マックス・ヴェーバーの「精神なき専門人と、心なき享楽人」の分裂の新しい図式かもしれない。

○第五章「役割と自己」

  • 役割としての自分と本当の自分の解離はある意味でまっとうなことでもある。しかし、なぜこれが呼応可能性=責任を切り詰めるような解離にまで至るのか。

○第六章「じわじわとひろがる解離傾向」

  • きちんと課題解決している人であるのに、自己評価が低い人が多い。
  • 学校においてはいじめが横行し、他者への絶望から役割としての自分と本当の自分を解離させていると考える。

○第七章「国家という集団」

  • ドイツと日本は第二次世界大戦における位置づけは似ているが、戦後の取り組みは相当異なっている。ドイツは国旗も国歌も変えた。ニュルンベルク裁判後も戦争責任のことを国として考え続け、西ドイツ初代首相アデナウアー演説や、ヴァイツゼッカー大統領演説がなされた。
  • 戦後の賠償も、ドイツ5兆9千億円(今後2兆円)、日本1兆円(今後0円)と大きな開きがある。また軍人に対する補償はドイツでは傷痍軍人に対するものを除きほとんどないが、日本は軍人恩給が手厚い。

○第八章「責任の空洞化」

  • 戦争現場で、補給の切れた自隊が破滅していった責任をとって現場指揮官が自決している。しかし、補給が切れた直接の原因者である大本営は責任をとらなかった。
  • バブルの原因の多くは、大蔵省による不動産融資の緩和にある。しかし、官僚はまったく責任をとっていない。
  • 構造的な無責任が横行し、すべて「なりゆき」だったと片づけられてしまう。

○終章「人間として生きるために」

  • 構造的無責任のもとでは、他者との呼応可能性が衰退し、集団・組織・社会への信頼が希薄化する。
  • ふるまいとその結果を受け止め、フィードバックする行為こそが学習につながる。
  • 立場をわきまえ、余計なことを考えないようにしてしまうと思考能力は磨鈍してしまう。
  • 一人一人は組織の構成要素ではない。呼応可能性をぜひ大切にしてほしい。

■読後感
「責任」という言葉は、法律でいう「〜ノ責ニ任ズ」という意味で使われるのがもっぱらであるが、著者は、responsibility=呼応可能性という言葉が責任という言葉の真の意味であるという立場をとっている。
世の物事は、さまざまな因果関係の束の上に立っており、何か思わしくないことが生じたときに、その原因を単一のことに帰することはできない。しかし、個々の人間を自律的な存在と認め、さまざまな状況下で理性的な判断に基づきresponse=呼応する態度が、そうしたことを極力起こさないようにできるのではないか、ということである。
組織も人の集まりであり、組織の意思というけれども、その中で構成要素である個々のメンバーがresponsibilityを発揮することで組織自体を動かす行動原理も変えていくことができるはずだという立場をとっている。
ただし、「これは私の責任です」というときに、それはいかにも日本的なのかもしれないが、「結果のいかんは別としてその役割は自分にあります」という、立場に対し責任を持っていることを宣言する意味もあるのではないかと思われた。