西野喜一『裁判員制度の正体』講談社現代新書、2007年8月
- 作者: 西野喜一
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/08/17
- メディア: 新書
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- 裁判員制度は、アメリカの陪審制やヨーロッパの参審制を参考につくられた。どちらかというと参審制とき共通項が多く、量刑など深く裁判に関与することとなる。
- この制度は、平成11年に内閣直属の機関としてできた司法制度改革審議会の議論を踏まえて成立した。
- 陪審か参審かというところが議論されたが、陪審制には誤判が多いということで、委員である法学者のリードで参審に近い制度が提案されることとなった。当時から、この制度を推進する論者においても「健全な社会常識」が反映されるということについては懐疑的であった。
- 問題点としては以下のことが考えられる。
- 1.実施する必然性がない。
- 2.憲法に違反する制度である。
- 3.手抜き審理が横行する可能性がある。
- 4.事案の真相追及が図られなくなる恐れがある。
- 5.被告人にも犯罪被害者にもつらく過酷な思いをさせる。
- 6.費用がかかりすぎる。
- 7.国民の負担が大きい。
- 8.国民動員につながる思想をはらんでいる。
- 世論調査の結果を見ると、国民から本当に望まれた制度ということは難しい。また、この制度を作るときに、司法制度改革審議会では、憲法はもちろん、我が国の法体系と無理なく整合するかどうか検討されたとは考えがたい。
- また、裁判官による審理、判決が本当に国民感情から離れてしまったということがあったのかどうか。たとえば無謀運転のトラックが自家用車に追突して幼い姉妹が焼死したという事件の判決が軽いという意見があったが、そもそも判決はその当時の法律で定める範囲を逸脱した量刑を言い渡すことはできない。この事件を受けて「危険運転致死傷罪」が新設されている。
- 裁判員制度が冤罪防止につながるのではないか、という考えがあるがこれはどうか。冤罪が晴れることになるきっかけとは、判決を覆す新しい証拠の発掘による。必ずしも当時の判決が誤っていたとは言いがたいのだ。
- そもそも我が国の司法制度は、事実関係の詳細な立証、審理といった「精密司法」が特徴であった。しかし、裁判員制度の元では直感にもとづいた「粗雑司法」となるおそれが大きい。
- 裁判官は調書などさまざまな書類を行間まで含めてきちんと読んでいる。そんなことが果たして一般の国民にできるのか。
- 裁判で特に難しいのが事実認定である。法廷に提出された膨大な証拠から、それぞれの信用性、証明力を判断することである。
- 候補者にはいろいろと質問が浴びせられる。プライバシーはなく、回答を拒否した場合は過料が課せられる場合もある。
- 選任されず、むだ足に終わることもあるだろう。補充裁判員に選任された場合には、公判に立ち会う必要があるが、評議に参加できるとは言えない。
- 病気でいけない、あるいは呼び出し状を犬が食べてしまったなど口実を設けて行かないようにすればよい。
- ともかくやってみて、直すべきところは直すという考え方があるが、重大事件をそのような形で裁かれるのは許されないことだ。
- 日本の刑事裁判制度は、他国と比べ評価が高い。なぜ裁判員制度を導入するのか。ほかの制度改正の道があったはずだ。
たしかにもっともと言える指摘が多い。裁判そのものがどれだけ国民の常識に近いものになるのか。
そもそも、国民の常識なるものが本当に純粋な下からの構築物として存在するのか。マスコミからシャワーのように浴びせかけられている言辞に過ぎないのではないか。
ただし、裁判への参加という過程は、一人ひとりの法意識の深化に影響は与えるはずである。立法と司法そのものに深く国民が関与し、その過程で法意識を醸成した自律した国民が形成され、もって少なくとも権利義務に関わる作用はすべて法により司られている行政活動をも「本来の姿」に変えていくことに制度改革の眼目があったはずである。
全体の書きぶりをみていると、テレビ発言をそのまま本にしてしまったような乱暴さを感じた。(とりわけ第九章)