内田義彦『社会認識の歩み』岩波新書、1971年9月

社会認識の歩み (岩波新書)

社会認識の歩み (岩波新書)

■内容【個人的評価:★★★−−】

  • 社会科学の過去の歴史的遺産を、われわれが社会を認識する過程でどのように生かすことができるかを考えたい。
  • 歴史の研究と現代の認識が切離される傾向にある。歴史から何を読み取るのかということが問題である。ただし、現代認識のための歴史学ということで実用主義的な傾向になることも避けなければならない。
  • 本が面白く読めたというのは、本を読んだのではなく、本で世の中が、世の中を見る自分が読めたということである。

◎第一部「社会認識を阻むもの」
○第一章「生活現実と社会科学」
○第二章「「方法論」とメソドロジー
○第三章「社会科学の言葉」

  • 歴史的に見ると、社会科学の言葉は、明治以来次第に正確にはなってきている、しかし、一方で日本語からは離れつつある。

◎第二部「社会認識の歩み」
○第一章「運命へのチャレンジ」
○第二章「国家の制作」

  • マキャベリの君主は抽象的なものであり、ある意味では人間の中の君主的側面を叙述したものである。統治者というものが、民衆とは別にあるということを前提にしている。一方ホッブズでは、国家は人間のためのものであり、人間が集まって生活するうえでどのような条件が必要なのか、という観点から叙述されている。
  • シュナーベルによるベートーベンの研究。リタルダンドと解釈されてきたものをリンフォルザンドであると考え、確認したところやはりそうであった。

○第三章「歴史の発掘」

  • ルソーは『エミール』で、自己愛が他人との交流=ピティエと結びつくことで始めて単なる「自己保存の欲求」から「道徳的な自己愛」になると言っているが、この言葉によりルソーが正常な社会関係の樹立をねらっていたことは明らかである。