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佐々木敦『ニッポンの思想』講談社現代新書、2009年7月

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

ニッポンの思想 (講談社現代新書)

■内容【個人的評価:★★★−−】
○プロローグ「「ゼロ年代の思想」の風景」

  • この本では1980年代以降の思想を対象とする。1980年代は、紛れもなく思想上の切断があった。

○第一章「「ニューアカ」とは何だったのか?」

  • 1983年9月に浅田彰『構造と力』、同11月に中沢新一チベットモーツァルト』が刊行され、とりわけ前者は15万部を超えるベストセラーとなった。
  • 『構造と力』は、まあまあ売れていたが、朝日新聞における紹介に出版社名の誤植があり、これを詫びるため、特集が組まれたのが売上が伸びるきっかけとなった。
  • 栗本慎一郎は、『パンツをはいたサル』の「まえがき」で様々な学問をごたごたにしたうえまとめてしまった、といっている。いわゆる学際的な傾向はニューアカの特徴である。しかし、横断が目的であったわけではなく、専門分野自体の変質の結果としてそうなっていった。

○第二章「浅田彰中沢新一−「差異化」の果て」

  • 自分は1964年生まれであるが、『構造と力』を読んで驚いたのは、難解であるということでなく、逆に主張がわかりやすいということである。
  • ポスト構造主義、差異化の構造のみならず、こうした考え方に基づいたライフスタイルまでも提案している。
  • 著作の特徴として「チャート化」ということがある。これが難解な思想を分かりやすくした。これは、小説に膨大な註を付した田中康夫や、流行現象やライフスタイルをチャート=カタログ的に紹介したホイチョイ・プロダクション気まぐれコンセプトなどと同じ文脈である。
  • 戦後初めて思想とカッコよさが結びついたのがこの時代である。

○第三章「蓮實重彦柄谷行人−「テクスト」と「作品」」

  • 蓮實の文章に頻繁に用いられるキーワードとして、表層、制度、物語、凡庸、紋切型、装置、荒唐無稽、倒錯、戯れ、遭遇などである。
  • 柄谷は、1974年の『マルクスその可能性の中心』で、それまであまり重要視されてこなかった「価値形態論」を軸にマルクスの『資本論』の読み直しを図った。読みの対象となる作品は、生みの親である作者から切り離されている。漱石に関しても、その作品の数だけ作者がある、書くことよりも読むことの自由を上位においている。柄谷にとってマルクスを読むことは、マルクス自身も意識していないが行っている何かを取り出すことである。

○第四章「「ポストモダン」という「問題」」

○第五章「「90年代」の三人−福田和也大塚英志宮台真司

  • 1989年にF.フクヤマの論文「歴史の終わり?」が発表された。これは、ヘーゲル=コジェーブの歴史哲学を下敷きに共産主義の終焉をタイムリーに宣言したとされ、一大センセーションを巻き起こした。浅田彰は、1992年の暮れにフクヤマと対談し、それは終わりのない過程をそのつど終わったことにして考えているだけではないかと批判した。(ヘーゲルはナポレオンによるイエナの戦いにそれを見、コジェーブは第二次大戦に、そしてフクヤマは冷戦の終わりにそれを見た)
  • ニューアカ世代に比べ、90年代の思想の特徴は、きわめて多作・多ジャンルであることである。そして発表される媒体も、『現代思想』のような批評誌でなく、『文藝春秋』『中央公論』などの総合雑誌に移った。つまりエリートの思想、上から目線の思想から大衆の思想に移っていった。
  • 福田和也は、浅田彰の思想は人間の生き死にとは無関係で、ただ正しいだけの思想であるとしている。福田和也の思想は多岐にわたるが、煎じ詰めれば、「日本とは何か?」ということに尽きる。失われたみやびを再び見いだすことにより、文学が「テクスト」から「うた」へと転回を図るべきとしている。
  • 大塚英志は1958年生まれで、筑波大学民俗学を学び、漫画の編集者を務めた。大塚の視点は「おたく」にある。福田の思想が80年代の極限化にあるとすれば、大塚の思想は80年代の護持=消費社会と戦後民主主義礼賛とでもいいうる。「おたく」は、宮崎勤宅八郎などに見られるように社会とは相いれない存在とみなされるが、そもそもおたくが存在できるのは、今のような社会があるからである。びっくりマンチョコのように、商品そのものでなくその背後にある物語を買う「物語消費」が行われている。
  • 大塚のアプローチは、ニューアカのような、哲学的=理論的な格子を現実に当てはめるものではなく、現実に向けた視線とフィールドワークから出発するボトムアップ型である。
  • 宮台真司は1959年生まれ、東京大学大学院を卒業している。
  • 三人は、浅田や柄谷とは異なり天皇制をそれぞれの形で受け入れている。

○第六章「ニッポンという「悪い場所」」

  • 宮台は、終わらない日常のきつさに負けて暴発したオウムに対し、終わらない日常をまったりと生きる術を持った女子高生を肯定した。
  • 浅田は、ニューアカデミズムという思想的取り組みの中で、問題にしていたのは、外部を持たないこの現実の中にどう逃走の線を引いていくかということを問題にしていたのだと言っている。

○第七章「東浩紀の登場」

○第八章「「動物化」する「ゼロ年代」」