升味準之輔『ユートピアと権力−プラトンからレーニンまで』(上)東京大学出版会、1976年9月

■内容【個人的評価:★★★★−】
○序章「ユートピアと権力」

  • 政治思想は、思想家と状況のダイアローグである。彼は、状況の中に課題を発見しこれに解決を与え、ユートピアを描きこれを状況の中に実現しようとする。
  • 三つの基本軸がある。
    • 1.状況はいかなる本質または法則を持ち、いかに変動するか(本質または法則Aにしたがって状況Bが生じた)
    • 2.いかなる理想がいかなる制度により実現されるべきか(基本的価値Pに基づく具体的制度Qが実現されるべき)
    • 3.だれがいかなる手段によりこれを実現するか(権力主体Xが政治技術Yによりこれを実現する)
  • 完全な平穏と充足の中では思想は死滅する。多くの思想は、現状についての危機感から生まれた。
  • プラトンペロポネソス戦役後のアテナイに生きて、どうして古きよき時代が滅び去ったのか、王政ないし貴族制を敷き、哲人君主により正義を実現できると考えた。
  • ウェーバーマルクスとの比較についてはすでにおびただしい研究があるが、資本主義社会の不可避的傾向は、「階級対立」であるとしたマルクスに対し、ウェーバーは「合理化」であると考えた。それは一方では魔術から人間を解放したが、他方で合理化された経営は人間から自由を奪う。
  • プラトンアリストテレス以来、比較制度論が行われ(君主制/民主制)、ヨーロッパの政治思想に影響を及ぼした。
  • プラトンユートピアからほとんど二千年の休閑期を経て、天国のユートピアにかわって地上のユートピアが復活する。ルネサンス後期のユートピア物語は中世都市の陰惨な状況に対し、海のかなたにある架空の国を描いた。それは大航海時代である。冒険家ヒスロディはユートピアをモアに語り、ジェノアの船長は、太陽の都を救護修道院長のカンパネラに語った。そしてつづく三世紀のうちに、空想家の関心ははるかな海の果てよりも文明の未来に向けられるようになった。
  • エンゲルスはサン=シモン、フーリエオーウェンを偉大な空想家と呼んだが、そもそも階級なき社会もユートピアではないか。
  • ユートピアはだれが実現するか。一つの典型はプラトンの「哲人王」である。哲人王は、正義のイデアを洞察する哲学的能力と、イデアを実現するだけの権力をもった仮想主体である。
  • マキアベリは「新君主」として政治技術を行使してイタリアに統一と安定をもたらす主体を想定した。メディチ家のジュリアノやロレンツォにこれを期待した。しかし、結果としては空虚なものであった。
  • ホッブズ『レヴァイアサン』の「主権者」は、外敵と内乱を鎮撫して人民の安全を保証するだけの権力を保持する限り正統の支配者とみなされる。
  • ルソーの「立法者」は、人民に代わって最善の制度をたてる。
  • 西欧の高度資本主義社会においては合理化が進んだ反面非合理化も進んだ。合理化は自由を奪い、それとともに現れる大衆民主化を背景にデマゴーグが台頭する。
  • マンハイムは、疎外された個人に自由を回復するために疎外を惹起した社会技術を動員して全社会を意識的計画的に統制すべきと考えた。しかし、そこには「誰が」が欠けている。皮肉にもそれを実現したのはマンハイムをドイツから追放したヒトラーであった。

○第一章「プラトン」(427-347BC)

  • 国民のうち誰が支配するべきか。支配者は守護者たちのうちで最も優れた者でなければならない。思慮深く、能力があって、その上国を憂うる者でなければならない。
  • 財産は人を腐敗させる。誰一人として万やむを得ない場合以外は私有財産を持ってはならない。
  • プラトンにとってイデアに最も近いのはクレタとスパルタの国制であり、最も遠いのはアテナイなど多くのポリスを荒廃させたせん主制であった。

○第二章「マキアヴェリ」(1469-1527)

  • マキアヴェリは、その著書『ローマ史論』において、人間性は不変であり、歴史は繰り返す、同じ状況と問題が循環すると考えた。こうした性質がある限り、過去の成功した人々の行為を模倣することが成功の秘訣となる。史書を読むにあたっても、出来事の面白さを見るのでなく、何が模範になるのかを考えるべきとした。
  • 彼は、統治の教訓の多くを共和制の初期ローマから引き出した。
  • 運命は彼に対して苛酷であった。彼は歴史家ではなかった。歴史家であれば、イタリアの歴史と条件を完全に無視したような新君主の幻をみ、それに期待をかけることはなかったであろう。

○第三章「ホッブズ」(1588-1679)

  • ホッブズは、フランシス・ベーコンの助手であった。言葉は事物あるいは事物についての思想を示す記号であるとみなし、正確な表現と明瞭な推理を尊重する点、対象をありのまま認識し、これを操作し構成しようとする点で両者は共通している。
  • 哲人王や新君主が人民を素材にして国家を制作するのに対し、ホッブズの場合は「契約」によって素材と製作者が同一化されている。
  • リヴァイアサンとは、この契約によって創造された人工人間である。
  • 自然権とは、各人が自身の自然すなわち生命を維持するために、自分の力を自分が欲するように用いる自由である。そして自然法とは、理性によって発見された戒律または一般法則であり、これにより人はその生命を破壊したり、生命維持の手段を奪い去るような事柄を行ったりすることを禁じられる。
  • リヴァイアサンは猛然たる非難を巻き起こした。彼の理論は、教会の神学や王権神授説に対する挑戦であった。これはクロムウェルのために書かれたことになる。

○第四章「ルソー」

  • ルソーは、若くしてヴァラン夫人の寵愛を受け、31歳で女中として雇われたテレーズと結婚する。しかしテレーズの生んだ五人の子供はみな養育院に棄てられた。
  • 人民(X)の社会契約(Y)により、自然状態(B)は社会状態(P)に転換する。
  • 一般意志とは、普遍妥当の法である。そのもとで人々は自由平等になる。一般意志は全部の人から生まれ全部の人に適用されるべきものである。全体意志は特殊意志の総和に過ぎない。
  • 立法者(X)は、人間のすべての情熱をよく知っていて、しかもそのいずれにも動かされない。立法者は統治者ではない。

○第五章「ヘーゲル

  • ヘーゲルは、国家体制は個人あるいは集団が一定の目的と計画に従ってつくるというものではなく、歴史的に生成するものである。国家体制の頂点は君主である。公共の福祉のうちに自己の真の利益を認める個人は、市民社会の中には存在しない。
  • 完成した君主制は、統治権(司法、行政)と立法権を内包する。
  • ヘーゲルはあるべき国家をえがくことをやめ、すでにある国家を認識する。それが理性的洞察である。「ここがロドスだ。ここで跳べー存在するものを把握することが哲学の課題である。」哲学はユートピアを語らない。どう変えるかではなくどう認識するか、なのである。「ミネルヴァのフクロウは迫り来る夕闇とともにはじめて飛び始める」
  • 世界史をヘーゲルは手段の世界とみた。それは精神の自己発展の手段である。そしてその展開は君主個人でなく、国家制度のなかにあらわれる。

○第六章「トクヴィル

  • トクヴィルは、アメリカのデモクラシーを見て、ヨーロッパの未来の姿としてとらえた。しかし、そこには多数者の圧政の危険がある。多数の圧政を緩和する制度としては、連邦制・地方自治制および司法制度がある。
  • イギリスはアリストクラシーの国であったが、デモクラシーの波はイギリスにも押し寄せ、現状に満足し伝統を自慢するのがかつてのイギリス人の特徴であったが、今日では現状に対する不満や過去に対する憎悪がひろがっている。

○第七章「マルクス

  • マルクス1850年の春以来、大英博物館の図書館に通い、革命の起こりうる、または革命を起こしうる状況について研究を行った。マルクスは一度も就職したことがなく、一家のロンドンでの生活は悲惨をきわめた。
  • マルクスはながく友情をつなぐことはほとんどできなかった。議論において軽蔑、罵倒してしまう。エンゲルスだけが例外であった。

■読後感
当事者になることこそ認識を深めるための最も早い道である。裁判員制度地方分権も同じで、一部のエリートではなく、一般の市民を当事者にする道である。
地方分権についても政策主体としての自治体というのは飽くまでも過渡的な形態であり、住民の意思を立法・事業化するためのサポートをする、あるいは場を提供する(議会)、ための機関をめざしているということだろう。