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中井久夫『隣の病い』ちくま学芸文庫、2010年3月

隣の病い (ちくま学芸文庫)

隣の病い (ちくま学芸文庫)

■内容【個人的評価:★★★★−】

◇構成法としての「箱庭」と「コラージュ」−その特性と相違点−

  • 一般に構成法に共通なのは、一つの「全体」を目指すことである。箱庭でも風景構成法でも、最終的には一つの全体であるように配置を行う。ただし、箱庭は置き直しがいくらでもできる。それが箱庭の大きな可能性であり、箱庭はすべての方法の中でもっともドラマに近い展開を示すものである。風景構成法はずっと波瀾がない静的な過程である。ただし、全体を表そうという指向は箱庭よりも強い。ではコラージュではどうか。全体への指向性はたしかに存在する。ロールシャッハでも全体反応というものがあるけれども、それよりも強い。しかし、それは箱庭や風景構成法にくらべればはるかに弱いか、あるいは、ゆるい全体性であるのがふつうである。風景構成法では、整合的でない場合はかなり問題であるが、コラージュでは、風景構成法においては「ゆがんだ空間」とか「複数の空間」「複数のパースペクティヴ」といわれるものがむしろ普通である。つまり、透視法的全体空間の構成は第二義的なのである。強いていえば「エステティック(審美的)な全体」を目指すということになろうか。これに対して、風景構成や箱庭においては審美的観点は第二義的なものである。(104ページ)
  • さらに相違点はある。一般に、箱庭や風景構成法は「外的空間」の性質を持つ。これに対してロールシャッハにおける表現空間は「内的」とも「外的」ともいうことができない浮動的なものであるのがふつうである。コラージュの空間も、内的外的の区別が浮動的あるいは未分化な点でロールシャッハの空間に近い。しかし、非常に違うのは、全体と部分との区別がコラージュの場合にはないことである。その代わりにあるのは、切り出された切片と切片との間、あるいは切片と余白との間の絶対的断絶である。はっきりしているのは、「周辺」と「中心」、「左右」「上下」、そしてアイテムの相互関係だけであろう。(104〜105ページ「コラージュ私見」)


◇コラージュの治療的意味−「まとまろう」とする方向性と「ちらばろう」とする方向性−

  • コラージュにはどういう治療的意味があるかを考えよう。まず、安全性についてである。ロールシャッハやなぐり描き法と違って、曖昧で不気味なものに不意に直面することはない。ありきたりの図形を、まず下見してから自分の思うように切り抜けばよく、嫌ならパスすればよい。それ以後でも、糊をつける前に捨てるとか、上に別の切片を貼るとか、いくらでも回避法がある。回避法があるということは安全性が高いということである。さらに、年齢、知能などによる限定があまりなく、高い知能の人もそうでない人も等しく熱中できる方法である。
  • では、コラージュの治療的意味というものはどこにあるのであろうか。いろいろな言い方ができると思うが、非常に一般的に考えてみたい。人間の思考や感情や意志あるいは行動というものには、いずれも、二つの方向性がある。すなわち、「まとまろう」とする統一的方向性と「ちらばろう」とする分散的方向性とである。そして、そのいずれの方向性も、それだけでは駄目なのである。考えをまとめるためには、まず、ある程度ちらばっていなければならない。あるいは適当にちらばらせなければならない。初めからひたすら統一をめざせば萎縮となり、後には一つに小さく固くまとまってしまえば、それは化石みたいなものとなる。しかし、分散しきってしまえば、それはまとまりのない無秩序、すなわちもう一つの死物である。精神の健康あるいは精神の存立自体の可能性は、その中間にあって、この二つの方向性の、揺らぎを伴った動的平衡にあると私は思う。それによって、統一と分散との統合、すなわち展開(発展)ということが可能になる。
  • 河合隼雄は、どこかで「治療というものは、もつれた毛糸をほどくようなもので、ふわふわふわふわとやっていれば(ここで手真似)いつの間にかほどけてくるものですな」と語っているが、この直観的治療像には、まとめようという方向とちらばろうという方向とを、ともに無理のない範囲で調和させながら自然に回復させるという機微が巧みに物語られている。(107〜109ページ「コラージュ私見」)


◇コラージュと夢はよく似ており、緊張を和らげる効果を持つ

  • コラージュも夢も、ともに、組み合わせと展開とが予想外である。そして夢もコラージュも、ともに、まとめようとする力とちらばろうとする力とが、日常覚醒時とは違ったバランスだが一種のバランスを保った土俵の中で、交互に、あるいは同時的に働く場である。夢もコラージュの過程も時間とともに変わってゆく。相違は、コラージュにおいては、周囲の枠が不動であること、夢には必ずあるといってよい唐突な場面転換がないことであろう。いや、ハサミで切ること、貼ることは、夢過程に欠かせないという「ツェズール(Caesur)」、すなわち「休止を伴う唐突な場面転換」−「お話変わって」という−に相当するのかもしれない。そうだとすればコラージュはますます夢に似ているということになる。
  • 夢の自然治癒的意味とば、昼間覚醒意識では解決されないことを、よりゆるい、映像的な論理によって解決しよう、すくなくとも未解決の問題を抱えている緊張をやわらげようとするものである。コラージュの治療的意味もそれと近いところにある。したがって、夢の解釈の限界がコラージュの解釈の限界を示唆する。逆にいうとコラージュ過程は行うことそれ自身に治療的意味があって、成立じた作品の解釈を急ぐ必要がないともいうことができる。(110〜111ページ「コラージュ私見」)


◇治療者がコラージュ作品を賛美することが治癒的効果を持つ

  • コラージュはハサミ一つを頼りにする冒険である。パリントはフイロパティックな行為は三段階よりなると言っている。つまり、安心できる出発点と到着点とがあってはじめて空間をスキルによって飛翔できるのであり、とくに着地の際に是認し賛美してくれる対象(人物)が必要であるという。「貼りつけ」段階はすでに着地体勢にはいっているとみることができるが、その段階から成しおえた後にかけて、治療者が冒険の話を聞くような姿勢を示すということがコラージュ過程を治療的なものとして完成させるのであろう。(113〜114ページ)


統合失調症と、「おおぜいの中の一人」性と「唯一無二の「私」」性の共存関係

  • おそらく、人間は自分が大多数の他者と格別変わらないという「おおぜいの中の一人」性と、ほかならぬ私であるという「唯一無二の「私」」性とを共に認めていることが成人的な精神健康のために重要なのであろう。この二つが哲学的に統一できるとか、そういうことが論理的に根拠づけられるかどうかは私にはわからない。コンラートのアポフェニーとは前者が考えられなくなることである。彼のコペルニクス的転換は「おおぜいの中の一人」性を強調しており、多くの精神病理学は患者の「唯一無二の「私」」性の脆さを強調している。しかし、いずれも楯の一面であって、前者は破綻について、後者は基礎構造についての発言である。自由とは、両者をふわりと共存させることであって、このことは論理的帰結ではなく、コモン・センス、すなわち「外界と内界との区別」に始まる「現実吟味」の諸段階を経て獲得された「共同体的感覚」である。統合失調症について想定されているような逆理状態が頻繁に、あるいは簡単に実現しては生存できないから、その実現を妨げるシステムがあるはずであると私は考えた。(135ページ「統合失調症の病因研究に関する私見」)


統合失調症患者の見る夢には妄想や幻覚はない

  • 統合失調症が重大な病気だとしたら、その症状は夢にも現れて彼らを悩ましても不思議はないが、実際は逆であって、ほとんど夢に現れない。彼らの見る夢は淋しい夢、つかみどころのない夢が多いようだが、妄想と幻覚をみるのはもちろん、それと明確に関連した夢さえみない。稀に現れた時は症状自体の消失寸前であり、昼間の症状はぐっと軽くなっていた。ただ、夢に症状が何年も入ったままの患者を二名だけ経験しているが、この場合は心身症を併せ持ち、後に述べる希有な臨界期遷延状態と考えられた。妄想は白昼の自我にはもちろん、夢にも統合できないと私は考えた。「妄想を自我に再統合する」というような治療目標は無意味ではないか。
  • 次に、そもそも睡眠が救いに来ないのか、第三に、どうして胃潰瘍、高血圧をはじめとする心身症が起こって、中枢神経系を守らないのか、第四に、意識喪失、意識混濁という奥の手が起こらないのか、第五に、どうして慣れが生じないのかということを考えた。第六に、そもそも、疲労感などの身体感覚が危機を告げないのか。
  • 私の観察を補強したのは、絵画療法であって、私はいくつかの技法を開発して、事実上ほとんどすべての患者に絵画を描いてもらった。そこで、「自由に空間を仕切る」「自由に空間の中をなぐり描きする」ということが幻覚妄想状態にあってはできないということ、自発描画に巧みな患者も全く同じようにできないということに感銘を受けた。(136〜137ページ「統合失調症の病因研究に関する私見」)

■読後感
「コラージュ私見」は、心理カウンセリングの場で多用される「コラージュ」や「箱庭」の特性と治療的意味に係る試作的論考として興味深い。どちらも与えられた材料を使って、定められた範囲のなかで自分なりに図を構築する行為であるが、コラージュはその与えられた材料本来の意味を逸脱する自由さのようなものがある。箱庭がある程度まとまった構図のようなものを作り出すのに対してコラージュは全体よりも個別の切片のあいだの相互関係が中心になる。