渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー、2005年9月

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

■内容【個人的評価:★★★★★】

◇近世日本社会は独立した文明であり、近代化とともに滅んだ

  • 私はいま、日本近代を主人公とする長い物語の発端に立っている。物語はまず、ひとつの文明の滅亡から始まる。日本近代が古い日本の制度や文物のいわば蛮勇を振った清算の上に建設されたことは、あらためて注意するまでもない陳腐な常識であるだろう。だがその清算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは、その様々な合意もあわせて十分に自覚されているとはいえない。十分どころか、われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚して来たのではあるまいか。実は、一回かぎりの有機的な個性としての文明が滅んだのだった。それは江戸文明とか徳川文明とか俗称されるもので、十八世紀初頭に確立し、十九世紀を通じて存続した古い日本の生活様式である。(10ページ)
  • それはいつ死滅したのか。むろんそれは年代を確定できるような問題ではないし、またする必要もない。しかし、その余映は昭和前期においでさえまだかすかに認められたにせよ、明治末期にその滅亡がほぼ確認されていたことは確実である。そして、それを教えてくれるのは実は異邦人観察者の著述なのである。(11ページ)


◇ヒュースケンの見た日本−豊かで笑いの絶えない国−

  • ヒュースケン(Henry Heusken 一八三二〜六一)は有能な通訳として、ハリスに形影のごとくつき従った人であるが、江戸で幕府有司と通商条約をめぐって交渉が続く一八五七(安政四)年十二月七日の日記に、次のように記した。「いまや私がいとしさを覚えはじめている国よ。この進歩はほんとうにお前のための文明なのか。この国の人々の質撲な習俗とともに、その飾りけのなさを私は賛美する。この国土のゆたかさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように恩われてならない」。(14ページ)


◇日本人の表情にあらわれている幸福感

  • 人びとの表情にあらわれているこの幸福感は、明治十年代になっても記録にとどめられた。ヘンリー・S・パーマー(Henry Spencer Parmer 一八三八〜九三)は横浜、東京、大阪、神戸などの水道設計によって名を残した英人だが、一八八六(明治十九)年の『タイムズ」紙で伊香保温泉の湯治客についてこう書く。「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現われていて、その場所の雰囲気にぴったりと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えず喋り続け、笑いこけている」。(75ページ)


◇日本の農村の美しさ

  • しかし一八六〇(万延元)年九月、富士登山の折に日本の農村地帯をくわしく実見するに及んで、オールコックの観察はほとんど感嘆に変わった。小田原から箱根に至る道路は「他に比類のないほど美し」く、両側の田畑は稔りで輝いていた。「いかなる国にとっても繁栄の物質的な要素の面での望ましい目録に記入されている」ような、「肥沃な土壊とよい気候と勤勉な国民」がここに在った。登山の帰路は伊豆地方を通った。肥沃な土地、多種多様な農作物、松林に覆われた山々、小さな居心地のよさそうな村落。韮山の代官江川太郎左衛門の邸宅を通り過ぎたとき、彼は「自分自身の所在地や借家人とともに生活を営むのが好きな、イングランドの富裕な地主と同じような生活がここにあると思った」。(104ページ)


◇速水融の観察した近世日本社会の農業生産の発展

  • 徳川期における農業生産の発展について、「勤勉革命」(インダストリアスレヴォリューシヨン)という特異なタームを用いて明快な説明を行ったのは速水融である。むろんこれは産業革命との対比を意識した用語であって、速水によると、十八世紀英国の農業革命は経営面積の拡大と大量の家畜および大型農具の導入によって、労働生産性と土地生産力を同時に引き上げるものだった。技術発展は資本集約的方向、すなわち投入される資本/労働比率を高める性格のものであり、それを可能にしたのが可耕地/人口の比率の高さ、すなわち家畜飼養のためのスペースのゆとりだった。それに対して徳川期日本では可耕地/人口比率が低く、家畜飼養のための土地を見出すことが出来ず、むしろ家畜飼養を放棄して、投下労働量を増加させる方向、すなわち労働集約的方向が選択された。(112ページ)


◇山村で観察された貧しさ

  • 彼女(イザベラ・バード)が福島と新潟の県境近くで見たある山村は、悲惨な貧を現わしていた。「休息できるほど清潔な家はなかったので、私は石の上に腰かけて一時間以上このあたりの人びとのことを考えた。白くも頭や疥癬やただれ目の子どもたちが溢れていた。女はみんな赤児を背負い、背負えば自分がよろめくような子どもも、みんな赤児を背負っていた。はたちは木綿のズボンしか身につけていなかった。一人の女がひどく酔ってふらふらと歩いていた」。通訳の伊藤は、「あなたにこんなものを見られて、私は恥かしい」と頭を抱えたと彼女は書いている。(116ページ)


◇犯罪の少なかった社会

  • 開放的で親和的な社会はまた、安全で平和な社会でもあった。われわれは江戸時代において、ふつうの町屋は夜、戸締りをしていなかったことをホームズの記述から知る。しかしこの戸締りをしないというのは、地方の小都市では昭和の戦前期まで一般的だったらしい。ましてや農村で戸締りをする家はなかった。アーサー・クロウは明治十四年、中山道での見聞をこう書いている。「ほとんどの村にはひと気がない。住民は男も女も子供も泥深い田園に出払っているからだ。住民が鍵もかけず、何らの防犯策も講じずに、一日中家を空けて心配しないのは、彼らの正直さを如実に物語っている」。(159ページ)


◇日本では礼節は普遍的な社会契約だった

  • 「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしている人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである」。(182ページ)


◇日本人の宗教心

  • スミスは言う。「平常の時は日本人の宗教的熱意は低調で、寺院はほとんど見捨てられている。毎日の勤行に信徒が出席することは稀で、ふつうは僧侶も勤行をとりやめる。特定の祭日がめぐってくると、大衆の迷信的な信心がことごとく呼びさまされる。こういった例年の祭礼には、厖大な群衆が寺の儀式につめかける。飲食と歓楽が彼らの宗教の少なからざる部分をなしている」。だがエドウイン・アーノルドは、こういった日本人の信仰のありかたを、格別怪しからぬとも劣等とも考えはしなかったようだ。彼はリゴリスティックなプロテスタンテイズムを嫌って、むしろ仏教に理想の宗教を見出した人だった。彼が「彼らはあらゆる縁日や祭−すなわち彼らの”聖者の日”を市や饗宴と混ぜあわせる」といい、さらに「宗教と楽しみは日本では手をたずさえている」というとき、それが非難ではなくむしろ讃嘆に近いのは、彼のそういう祭の描写がよろこびに満ちていることで知れよう。(538ページ)

■読後感
近世の日本というものは、頭に描けそうでいて描きがたいものである。衣類や使っていた道具などはわかっても、その当時の人々がどのような生活習慣を持ち、どのような心理状態にあったのかはなかなかわからない。ここで描かれる日本人の姿は、一つ異次元のといってよいものかもしれないけれど、なぜか腑に落ちるものでもあった。