小熊英二『生きて帰ってきた男:ある日本兵の戦争と戦後』岩波新書、2015年6月

■内容【個人的評価:★★★★−】

◇軍隊への召集と家族との別れ

  • カーキ色の国民服を着た小熊謙二は、「立派に奉公してまいります」といった型通りの挨拶のあと、「行ってくるね」と祖父母に告げた。祖父は感極まって、大声で泣いた。当時としては極めて異例の、事実上タブーといえる行為だった。祖母は「謙(謙二の愛称)、行け!」と、押すように中野駅のほうへ彼を送り出し、祖父を自宅の中に入れた。小熊謙二が、シベリア抑留を終えて日本に帰ってくるのは、この四年後のことになる。(2ページ)


◇商店街の形成

  • (公設市場と)同様に協同化の試みとなっていたのが、商店街の形成である。片山家の最寄駅は西武軌道線山谷停留所(現在の丸ノ内線東高円寺駅付近)だったが、付近には「共栄会市場」というアーケードをもつ商店街があった。人が通れるくらいの道路の両側に、一階を店舗・二階を住居にして、魚屋・八百屋・小間物屋などが並んでいたという。当時の東京では、百貨店などに対抗するため、零細商店が資金を出しあい、アーケードを設置した商店街を作る事例が出てきていたのである。(17〜18ページ)


◇子どもたち

  • 「子どもだったので、親の格差はさほど気にしなかった」というが、商人や職人の子たちと、「月給取り」の子たちは、遊ぶグループも違っていた。謙二は商店の子たちとメンコやべーゴマをやり、「水雷艦長」とよばれた戦争ごっこで遊んだ。遊び場は、耕作放棄されたがまだ宅地になっていない「はらっぱ」と、自転車が通らない商店街の裏通りだった。(20ページ)


日中戦争後におかしくなっていく日本の空気

  • 「当時の戦争ものは、後年ほど荒唐無稽ではなかった」。謙二によると、「おかしくなったのは、日中戦争が始まってから」という。たとえば当時の仮想戦記に、軍事評論家の平田晋策が『少年倶楽部』一九三二年五月号に掲載した『日米もし戦はば』がある。謙二も単行本になってから、同級生のものを借りて読んだが、日米の国力・軍事力と、当時の両国の基本戦略計画をふまえて、西太平洋での会戦を想定した内容だった。しかし一九四一(昭和一六)年夏にたまたま読んだ日米仮想戦記は、日本軍がアメリカ西海岸に上陸して、首都ワシントンを陥落させるというものだったという。(23ページ)


◇戦中から戦後のインフレ−財産が雲散霧消−

  • 「当時は、官僚や高級軍人でない庶民には、年金制度などなかった。だから、働けるあいだにできるだけ貯金し、老後に備えるという考えだった。父も祖父もそうだつた。しかしインフレで、そうした人生設計は全部破綻した。父がもし、それを予測できていれば、北海道に残っただろう。しかし、国家そのものが破綻するような大きな時代の変化に、対応できる人間はごく少ない。たいていの人は、それまでの人生の延長でものを考えてしまう。」(53ページ)


◇一度外れてしまうと・・・しかし高度成長の恩恵が

  • 戦争とシベリア抑留で大企業の職を失い、若い時期を結核で失った謙二にとって、「下の下」から、浮上するチャンスはないものと思われた。「日本の社会というのは、いちど外れてしまうとずっと外れっぱなしになってしまう」というのが、当時の彼の率直な印象だった。しかし結果からいうと、高度成長の進展が、謙二に好作用した。日本社会全体の底上げのなかで、偶然にも新規ビジネスのチャンスをつかんだことが、謙二の後半生を決めることになる。(246ページ)


◇いわゆる「サラリーマン」はそれほど一般的存在とは言えない

  • 統計的事実からいえば、大企業型の雇用形態は、日本の就業者数の二割に達したことさえない。しかしそれは、実態上の普及度以上に、この時代の日本社会の「典型的人間像」ないし「安定的生活像」を創りだした。謙二のような人間さえも、自分のことを「サラリーマン」だと思っていたという事実は、そのことを裏面から示している。(300ページ)


◇人生の苦しい局面で最も大切なこと

  • 「希望だ。それがあれば、人間は生きていける。」(378ページ)

■読後感
戦前、戦中、戦後と生きた男を、その驚くべき記憶力をもとに、「ドラマ」としてではなく「ノンフィクション」として描き出した作品。

筆者はその男の息子であるわけだが、父の客観的な言葉を踏まえつつ聞き取った内容に社会科学的な分析を加え、当時の一人の人間や家族の暮らし、考え方、政治・経済・社会制度などに具体性をもって迫っている。

一庶民をこのような形で詳細な具体性と考え方を含め息遣いを持って描き出した作品は稀有であると思う。