吉本隆明『ひきこもれ』だいわ文庫、2006年12月

 

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

ひきこもれ―ひとりの時間をもつということ (だいわ文庫)

 

 

■内容【個人的評価:★★★--】

◇「ひきこもり、いいじゃないか」
  • 「ひきこもり」はよくない。ひきこもっている奴は、何とかして社会に引っ張り出したほうがいい。-そうした考えに、ぼくは到底賛同することができません。 ぼくだったら「ひきこもり、いいじゃないか」と言います。世の中に出張っていくことがそんなにいいこととは、どうしても思えない。(23ページ)
◇一人で過ごす時間が価値を生み出す
  • つまりそれだけひきこもる時間というものを大事に考えてきたということです。自分の時間をこま切れにされていたら、人は何ものにもなることができません。 (27ページ)
  • 価値を生み出すためには、絶対ひきこもらなくてはいけないし、ひきこもる時間が多い人は、より多くの価値を増殖させているといえます。 (42ページ)
◇正常の範囲を狭めないこと
  • 世の中にどんどん出張っていく社交的な要素と、ひきこもりの要素。その両方がバランスがとれているのが、おそらく一番いいことなのでしょう。しかしどんな人でも、どちらかに傾いているのです。・・・誰だってどちらかに傾いているのであって、「正常」ということをあまり狭くとらえる必要はないのです。 (44~45ページ)
◇教師が生徒と向き合おうとするから生徒は迷惑する
  • 教師は黒板に向かって数式を書いたり、文法を説明したりして、授業をきちんとこなしてくれればそれでいい。生徒にいつも背中を見せていればたくさんなのです。それなのに、生徒のほうを向いて、授業以外のことについても広範囲に問題の種を見つけ「これでは駄目だ」などということを言う。倫理的なお説教のようなものを生徒に向かってやろうとするわけです。 ・・・向き合って何かを伝えようとか、道徳的な影響を与えようなどとするから、偽の厳粛さが生まれ、子どもに嫌な圧迫感を与えるのです。(69、71ページ)
不登校の子どもたちはどうあるべきか
  • 不登校の子どもたちは、優秀で判断力が優れていたりしますから、学校なんていうものとは縁を切って、同類で集まったほうが利点があると考えるかもしれません。 でもぼくは、一般社会の中にいて、不登校的な生き方を貫いていくべきだと思うのです。(74ページ)
◇死は自分で支配できない
  • 死というものについて考える時、ぼくがいつも思うのは「死は、その間近に行くまでは自分のものだけれど、死ぬちょっと手前で自分から離れてしまうものだ」ということです。 (116ページ)
◇引っ込み思案の自分に合った仕事を見つけよう
  • なるべく早く、引っ込み思案なら引っ込み思案の自分に合った仕事を見つけたほうがいいんだよ、ということは言いたいです。なぜなら、どんな仕事でも、経験の蓄積がものを言うからです。持続ということは大事です。 (126ページ)
◇頭のいい人と競り合わなくていい
  • 頭がいい人というのは、自分を鋭く狭めていくようなところがあります。長い目で見ると、それはそんなにいいことではない。熟練した仕事人になるには、少しゆるんでいて、いい加減なところがあって、でも持続力だけはある、というのがいいのです。 (128ページ)
◇自分なりのビジョンは一番重要
  • 社会全体をこういうふうに捕まえるのが一番自分らしいんだ、というビジョンを絶えず持っていないと、文学も駄目なのではないかないか、ということです。 (144ページ)
◇群れて集まって発言することの醜悪さ
  • ぼくは市民運動が嫌いです。群れて集まって、その数を頼みにしていろいろなことを言う。そこには冷静さがなく、根拠といえば漠然とした「感覚」だけです。 (170ページ)

■読後感

筆者は、ひきこもることは自分との対話の時間であり、これなしには自分自身の価値を作り出すことができない、と肯定的に「ひきこもり」を評価している。 個の力を信じ、むりやり何かをさせるのではなく自分で考えさせるということを基本に置いている。

ひきこもった状態は、たしかに自分の時間かもしれませんが、これが「自分を深める対話の時間」になるのかどうかはその人しだいではないかと思う。社会に出ることで自分と対話できる人もいるでしょう。

わたしは、この本は、ひきこもりの人たちにとって大きな力になるものだと思いますし、たまたま社会に出て生活している人たちにとっても振り返って自分を見つめなおすことの大事さを認識できる本ではないかと思います。