高島善哉『アダム・スミス』岩波新書、1968年3月

アダム・スミス (1968年) (岩波新書)

アダム・スミス (1968年) (岩波新書)

■読むきっかけ

  • この前に別の著者による同名書を読んでおり、比較のため
  • 学生時代読んだ本であり、内容を改めて確認したい

■内容【個人的評価:★★−−−】

  • スミスはグラスゴー大学の論理学に関する講義を受け持ったが、内容的にも形式的にも革新的なものであり、ラテン語ではなく母国語で行われ、スコラ的な論理学や形而上学から、生きた人間の思考や表現の問題に着目するものであった。
  • その後スミスは道徳哲学も担当するが、その内容は、1.自然神学、2.倫理学、3.法学、4.経済学から成っていた。この講義の核心が『道徳的諸感情の理論』として公刊された。これは狭く倫理学ではなく、社会哲学原理というべきものである
  • この出版以降スミスの関心は法学と経済学に移っていく
  • その後はじめて大陸へ旅行し、ケネーと交歓している
  • 国富論』は非常に称賛された。その後ある政治家の集まりにスミスが一番遅れて到着したときに、一同は起立した。スミスが着席してくださいというと、青年首相ピットは「われわれはみなあなたの生徒です」といったという有名な話がある
  • ウェーバーマルクスウェーバーはエトス(人間の心や行為の問題)に着目したのに対し、マルクスは資本主義社会のロゴス(構造法則)に着目した。ただし、ウェーバーマルクスもたんにエトスやロゴス単体で考えていたわけではなく、全体的な視座をもっていた
  • いっぽうスミスはこの両者を切り離して考えようとはしなかった。『道徳感情論』では社会的人間の行為の原理原則を明らかにしようとし『国富論』では経済を中心とした社会の全体を描こうとした
  • スミスは、市民社会ホッブズのように、理論的に契約を形成したとは考えず、歴史的な発展の産物であるととらえた
  • 国家は最初財産を守るために生まれたが、しだいにめいめいが自由で平等な人間を目指し、政治的には民主主義、経済的には自由主義を求めるようになる
  • スミスはまず経済があって政治が生まれたと考える=所有の安全が目的である、そして経済が主導して国づくり、文明づくりに進んでいくととらえた
  • 経済について、スミスは自分勝手な人間像を描いていたわけではない。経済社会では、人間には合理的な計算とあとさきの配慮と慎重な見通しが求められ、デフォーのロビンソン・クルーソーのような慎慮の徳が求められることとなる。したがって経済人とは市民社会においてもっとも有徳な人間となるのである
  • スミスのいう「利己心」とは経済活動にたいするセンスのこと
  • スミスは、穏健派であったが、いわゆる権力と結びついた商人や製造業者にたいしては批判的であった
  • スミスの「分業」は、たんに技術的なもの(製造工程)だけではない。職業間の分業、産業間の分業、都市農村の分業などに及んでいる
  • リカードマルサスはスミスと同じ思想や理論を受け継ぎつつ、修正と展開を図った。リカードの一番の関心事は富そのものの増大より、その分配である。リカードはイギリスの穀物価格が騰貴したとき、地主による不当な利得がこの原因と考えた。一方マルサスは、分配の不平等でなく食糧に比して人口が多すぎることが原因と考えた。
  • 調和の中に不調和があると考えたのがスミスであり、不調和の中に調和があると考えたのがリカードマルサスである
  • 一方ドイツのリストもスミス批判を展開するが、どちらかというと後進国であるドイツを守るために張られた論陣であり、根本的な違いがあるとは考えられない。両者とも生産力を市民社会の基礎をなす体系としている
  • 生産力とは、まず物質的富の生産から始まり、次いで民主主義、教育制度の開発、さらに合理的科学的精神の涵養にいたる道である
  • マルクスは唯一スミスを前方からとらえた社会科学者である。発展段階説にはじめて体制を位置づけ、資本主義における「資本の人格化」を論じた。スミスは、利己心や交換本能にみちびかれる「市民」を基礎としていたが、マルクスでは、資本が人の顔をまとって運動することとなる
  • また、このメカニズムにはめこまれなければ人は生きていけない
  • 近代経済学派もその理論的基礎をスミスにおいている。経済学のさまざまな学派の理論的な基礎を見ていくとスミスに到達することが多い。

■読後感
一読して、著者の思いというものがスミスを借りて表現されているところが多いと思われた。素朴に自らの素直な思いをもとに叙述しており、ある意味読みやすい。一方でこうした書き方ができたのは、安保闘争など時代背景あってのこととも思う
ただし、全体の叙述の流れをみるとマルクスの議論の基礎をなすものとしてのスミスを論じているきらいがあり、スミスが通過点に過ぎない印象を受ける
スミスの取り組みの未完成な部分とマルクスによる取り組みの前進という切り口よりも、スミスが素朴に悩んだポイントを一緒に悩んでみるほうが有益ではなかったか。