塩沢由典『市場の秩序学』(第一部「市場の秩序と無秩序」)ちくま学芸文庫、1998年4月

市場の秩序学 (ちくま学芸文庫)

市場の秩序学 (ちくま学芸文庫)

■内容【個人的評価:★★★★−】

  • 科学の主要な方法は複雑な現象のなかに単純な本質を見抜くことである。しかし、この本では、この長い伝統からはみ出し、複雑なものを複雑なまま見ることを志向している。それはなぜか、経済学では、たとえば取り扱う商品の種類や数は経済の働きに大きな差異をもたらさないと考えている。しかし、その種類と数は経済の働きに根本的に変えるというのが本書の主張である。
  • 日本を例にとれば、一億を超える個人と数百万の企業が数千万種類の商品を取引している。この複雑さ、多様さは、脳神経細胞を除けば他に類例がない。本書が取り組むのは、複雑な系がいかに調整・作動するか、そこに人間の行動がどうからんでいるか、という問題である。ここから、一般均衡論が想定するような人間行動がすべてを生成する体系ではなく、自然発生的に形成される秩序の巧みさを見ることができる。

◎第一部「市場の秩序と無秩序」
○第一章「経済の自己形成秩序」

  • 経済はひとつの体系である。すなわち個々の要素が他との密接な関連において運動して初めて機能する全体である。経済学はこのことを比較的早くから認識し、ケネーの経済表や、スミスの分業などの考え方につながっていった。しかし、あるものが一つの体系であるというだけでは認識として十分ではない。それがいかなる体系なのかが問われなければならない。しかし、経済学はここで大きな過ちを犯した。それは、19世紀の物理学に学んで、一般均衡の体系であると見なしてしまったことである。当時は、系を扱うに当たり、「均衡系」「平衡系」が唯一取り扱い可能な対象であった。
  • もし経済が本当に「均衡系」であったなら、これまでの学問的業績は大変なものであったといえるが、残念なことに経済は均衡系ではない。そのように誤認したのは、経済がかなりの程度において定常系であったからである。経済学は、均衡論と静学を同一視し、静学をどのように動学化するかということに頭を悩ませてきた。
  • 静学と動学という区別は物理学にいう静力学と動力学という区別を経済学に持ち込んだものである。この区別は、対象が静止状態にあるか運動状態にあるかに対応している。静止している系がその状態にとどまるための必要十分条件として各質点における力の平衡があった。同じ類比が経済学で成り立つのかどうか。ここでは、需要と供給の一致、経済主体の最大化行動が仮定されたりしている。
  • 静止状態・均衡状態と定常状態の概念的差異にも注目すべきである。経済は日々の時間尺度でほぼ定常系を保っているが、これは経済という系が静止状態にあるということではない。経済の定常性は、地下資源から廃棄物へという一定の物質輸送を生み出すことによって初めて保証されるが、これは静止状態でも平衡状態でもない。たとえば生物、地球のように非平衡定常の系がある。これまでそれらが注目されなかったのは、平衡系に比べ非平衡系の分析が格段に難しかったからである。しかしこの五十年間で物理学は、「開放定常系」や「散逸構造」などこれらの系を分析するための鍵となる概念が提案されている。ここに注目することで、これまで均衡以外に知識を持たなかった経済学を見直すことができるのではないか。
  • 均衡論は、均衡と定常を取り違えたという誤りのほかに、経済が基本的に定常であって初めて機能するということに気づいていなかった。不況への転換は恐慌という急激な形をとりうるのにたいし、好況は徐々にしかやってこないということ。経済は大きなショックに弱く、立ち直りには時間を要するということの理由は以下のとおりである。
    • 1.生産には多くの制約条件がある。売れ行き、価格、生産容量、原材料調達、運転資金、労働力など。これらの一部がおかしくなると、想定した生産は行うことができなくなる。するとこの企業から調達を行っている企業も制約を受けることとなる。こうした連鎖はあっという間に広がる。逆に回復させるには、一つひとつ制約条件を外していかなければならないので時間がかかる。
    • 2.事態の急激な変化は、長い期間かけて蓄積された知識の多くを一挙に無効にしてしまう。新しい事態に対応する知識は段々に積み上げるしかない。たとえば鉄鋼の価格がアルミの3倍に跳ね上がったとすると、これまで鉄を使って作っていた製品がアルミ製に切り替えられる。しかし、アルミを使った生産技術が軌道に乗るには、時間がかかる。
    • 3.事態の急変に伴い、多く信用にもとづいている決済が、信用の収縮により滞り、企業倒産の引き金となる。資金調達困難から設備投資も見送られる。
  • 経済の働きは均衡をつくることではない。過去に類似の状態を生み出すことにある。
  • 新古典派経済学は、長い間人間の経済行動を各種の最大化としてとらえてきた。しかし、サイモンが指摘したように、このような想定は、人間の情報収集能力と計算能力を無限とみなすものである。現実には最大化でなく満足化が人間の行動原理にある。こうした原理に一般均衡論は我慢できない。それは定式化を複雑にし、解をややこしくするからである。
  • アローとドブルーの均衡論は立派に動学的枠組を備えている。しかし、その均衡は過去と切り離された均衡である。一般均衡論は、いかなる与件であろうとも均衡が存在するというものである。
  • 経済が自己再生産系であることに注目し、その条件を探ろうとしたのは、新古典派の経済学者でなく、ケネー、リカードマルクスといった古典派経済学者であった。限界革命以降では、フォン・ノイマンとスラッファがそびえ立つ二つの例外である。
  • 均衡論と自己再生産系の理論の違いは、以下の部分に認められ、両者の違いは歴然としており、自分は自己再生産論の立場をとる。均衡論は狂った理論である。
    • 1.事態の反復を想定しない(均衡論)、事態の反復を想定する(自己再生産論)
    • 2.経済系の自己調節機能を確信(均衡論)、自己調節は限定的(自己再生産論)
    • 3.行動主体の選択を重視(均衡論)、人々の行動は適応的・修正主義的(自己再生産論)
  • スラッファやフォン・ノイマンの理論には、循環の論理はあるが生成の論理はない。循環の論理だけでは経済の全体像を把握するのには不十分である。生成の論理を明らかにするのは大変な難問である。
  • たとえば酒屋で今日一日のビールの仕入れをどう決めるか。これは、過去の経験をもとに決めていると考えられるがそこには定常性の前提が伏在している。また、じつは売上の予想はそれほど重要ではない。理論上は予想を重視するが、実際の調節は、在庫その他の緩衝装置によってなされている。
  • 均衡論が実際の必要以上に予想を重視するのは、均衡が一挙にかつ一回かぎりのものとして得られなければならないからである。繰り返される過程の中で何とかうまく行くという視点を均衡論はもっていない。じつは、均衡論の前提とする予想の繰り返しを考えた場合、予想には必ず誤差があるため、定常状態からのずれがどんどん増幅され、破たんすることとなる。
  • 経済過程のように、つねに外部からの撹乱を受け、反応に多様性のある人間が介在している体系においては、「ゆらぎ」を認めずして定常性の概念は得られない。経済における定常性とは、ゆらぎつつ基本的には繰り返される過程である。
  • 企業は、在庫、稼働率、生産容量と需要変動に対処すべき三つの変数を持っており、調節で最初に用いられるのが在庫(ひと月以下)、ついで稼働率(1週間から三カ月)、最後に生産容量(半年以上)ということになる。
  • 経済過程に現れる諸変数は、むしろ「常識」を破る類のゆらぎにしたがっているのではないだろうか。
  • 生産規模の変化が組み込まれるほどの経済時間においては、体系の変動要因としてゆらぎ以外のものが登場する。それは定向進化と呼んでもいいような一つの方向性を持った変化である。この過程は、循環的連関を持つ機構においてある変化が起こるとき、それをさらに拡大するように力が働く場合には常に見られる。

○第二章「市場の見える手」

  • サミュエルソンの『経済学』など、経済学の教科書といわれる本に扱われない対象がある。それは商業、商人である。その原因の一つは、スミスの「見えざる手」であり、もう一つはワルラスに見られる一般均衡の考え方である。ワルラスは、組織化されない市場においても、「見えざる手」が実際にはいない「せり人」の代わりを果たすと考えた。均衡の世界では、買い手は買いたいだけ買い、売り手は売りたいだけ売ることができる。売る努力も買う努力もいらない世界では、商人は固有の機能を失ってしまう。
  • 商機能は、均衡論の想定とは異なり、市場社会を機能させるための重要な一翼を担っている。売りにも買いにも知識、努力、決断が必要なのである。経済学が商機能の分析を忌避したのは、学問の自己保身意識が働いたためである。今では均衡論があらゆる場面で限界にぶつかっている。均衡論は市場の見えざる手を仮定したが、今はそれを見える手として分析すべきときである。
  • 20世紀、経済学の大勢は均衡論に向かったが、オーストリア学派のミーゼスやハイエクはこれに異を唱えた。彼らは市場は均衡でなく過程としてとらえた。これはじつはマルクスのとった方法でもある。
  • 市場は過程であり、時間の中に存在している。一般均衡論が市場に導入した最大の虚構は、この取引の決着をすべての可能なものにわたって同時に行うという過程である。取引は一つ一つ独立しており、不可逆である。一物一価の法則はゆるやかな意味においてしか成立しない。
  • 取引のルーティン化と熟練の発生は、取引を専門職業とする人々の出現を可能にし、かつ必然とさせる。これが商人である。商人たちは大変な発明家であった。貨幣を除く経済制度の多くは彼らが定着させた。定期市、常設店舗、取引所、問屋・卸売制、貸倉庫、銀行、保険などの諸制度がそれである。
  • 商人の知識はルーティン化された取引を前提としている。市場自体がこのルーティン取引により定期的に再現される。
  • 市場はきわめて複雑な混沌の秩序である。市場における知識はつねに部分的である。機敏な商人はつねに特別利潤を得ることができる。

○第三章「局所的知識」

  • 知識の一つの典型が科学であることに自分は反対しない。しかし、すべての知識の範例として科学をみる慣習がつくられてしまったのは問題である。といっても科学に変わるすごい知識の体系があるわけではない。時間的・場所的に限定され、人々の生きる状況に依存してのみ意味を持つ知識であり、これを「局所的知識」と呼びたい。たとえば商人の知識はこれに該当するだろう。
  • 家庭内の食器などは、それぞれ落ち着く場所がある。父親が片づけ好きだったりすると、たちまち家族は恐慌をきたしてしまうだろう。われわれの中には暗黙の地図があるのだ。それも局所的知識である。
  • 経済学者は経済過程を身をもって知ってはいない。経済過程に身をおいている人の知識を経済学者が自分のものにするには、その過程をまるまる追体験することが必要になる。そんなことは実際にはできないため、手の届かないものをあれこれ類推して、経済学を構築していかざるをえない状況にある。