橋本治『「わからない」という方法』集英社新書、2001年4月

「わからない」という方法 (集英社新書)

「わからない」という方法 (集英社新書)

■読むきっかけ

  • 「わからない」をキーワードに、本当に理解する、あるいは説明するということはどんなことなのかを論じている
  • 自分も、仕事もふだんの生活も本当に「わからない」ことばかりである

■内容【個人的評価:★★★★−】

  • わたしはなぜいろいろなことに手を出すのか。それは、わからないからである。こんなにもわからないと思ってしまった以上は自分のテーマにするしかないと思ってしまうのである。
  • 断片だけわかっていてもだめだ。全体像がわからないとまとめることができない。断片をまとめる方法がひとつある。それは、自分はどのようにわからないのか?と自分に問うてみることである。全体像が見えないのは、それをまとめる方向性がわからないからである。
  • わからないことを一つひとつつぶしていくのが人生であろう。
  • なにかがわかると、わかるとはどんなことかがという理解が訪れる。これが方向性の発見である。
  • 自分の頭で考えず、結果だけを求める人は結局のところわかっていない。

○第一章「「わからない」は根性である」

  • 普通の人は「わからないけどやる」「わからないけどやらされる」だが、自分は「わからないからやる」である。
  • 二十世紀は進歩を前提とする理論の時代だった。「わかる」ことが当然の時代で、正解はどこかにあると人は思っていた。そうした時代背景のもと、理論から理論へ人は走った。もともと日本は恥の社会であったが、これに二十世紀病が重なり、「わからない=恥」という考え方が確固としてしまった。
  • 二十一世紀は人類の前に再び訪れた「わからない」をスタート地点とする(いとも当たり前の)時代である。
  • 人はこまめに挫折を繰り返す。一度手に入れた自信はたやすく役立たずになってしまう。疑問はそのたびごとに自分で解いていくしかない。
  • 桃尻娘』でデビュー後、1年ほど小説を書かなかった。それはこの作品を書くことですべてを自分の中から吐き出したからであり、次の作品を書くために必要だったのは「新しい視点」だった。
  • 人生に挫折があるのはしようがない。挫折を認め、挫折を挫折に見せない工夫や覚悟を持つこと、これだけが人を挫折の苦しみから救うのである。挫折に苦しんでいる人の多くは虚栄心で苦しめられているのであり、挫折しているという事実を認めようとしない。
  • 企画書には明快なる方向性が求められ、迷いなどは許されない。なぜか?それは、企画書は上司が読むものであるが、上司とは業務の一線を卒業し「わからない」は存在しないと思いこんでいる人であり、理解できない企画書があがってくると、自分の力量ではなく部下の力量のせいにしてしまうからである。そんな企画書は当然ボツとなる。こうした状況で企画書に求められるのは現場の感覚ではなく、意外性と確実性(びっくりさせて安心させる)ということになってしまう。
  • 女の時代を迎える前、男たちは女を「へん」であると位置付け、排除してきた。女たちの声が上がり、女たちに自由を与えたとき、男たちは最も必要な自己批評という客観性を自分たちが失っているという自覚が必要だった。しかし、そうした自覚を欠く中でだれもが自分=へんじゃない、という自己中心的な視点を持つようになり、犯罪も増えた。
  • ひとは「へん」といわれることを忌避し、「へんじゃない」と認めてくれる集団・家族に逃避するようになった。しかし「へん」を切り捨てることは、他人の目を切り捨て、特性を失うことであり、独善と無責任への道へとつながっていった。
  • 自分のことを「へん」と思う人間は自分からの視点を切り捨てており、「へんじゃない」と思う人間は他人からの視点を切り捨てている。
  • これまでは「わからない」=「へん」であったが、これからの時代は「わからない」=「へんじゃない」である。「へんじゃない」は「へん」を排除するが、「へん」の立場にあれば「へんじゃない」を批評できる。
  • わたしは「セーターの本」を書いたが、それは「男が編み物をするなんてへん」という常識をひっくり返そうとしたのではない。ひっくり返そうとしたのは、それまでのセーターの編み方に関する常識である。

○第二章「「わからない」という方法」

  • 状況が健全なときには力のない人間でも救いあげてもらえる。しかし状況が傾けば力のない人間は平気で見捨てられる。
  • わたしは活字離れといわれる状況の中、この世界にとどまる方を選んだ。出版業界は不況であるが、存在自体が必要なくなったわけではない。建設業界も同じだ。以前ほどの仕事はないが、滅びてしまうということではない。
  • 編み物の世界は、「こうすればわかるでしょ」とか、「もっとちゃんとやって」というオバサンたちの論理の押しつけだった。しかし、教えるに当たりなぜ相手がわからないのだろうと考えもしてこなかった。
  • 実際にできあがったセーターの本に対し、編み物専門出版社の社長はなぜ自分のところではこうしたものができないのか悔しがった。それは、ある意味で編み物に関するノウハウが確立されてしまっているからであり、そのノウハウ自体がわかりやすいとしてもそれ以上崩しようがないため、自分の「セーターの本」ような形にすること自体無理だったのだ。
  • 知らない人間を相手にするときは、相手がどれだけ知らないのかをよく把握する必要がある。
  • 教える側は、見栄や見下しをしてしまう。優等生しか相手にしないということになる。
  • むずかしいかむずかしくないかは、教える側でなく教えられる側が決めるものである。
  • 「わかる」とは暗記することではない、理解し、納得することである。「セーターの本」は、くどすぎるくらいにくどく書いた。
  • バレエダンサーの熊川哲也は、自分のわからないところはどこなのかを自分で認識し、解決する力をもっていた。
  • 組織も同じであり、身体であるメンバーの一人ひとりがやるべきことを理解したときに大きな力を発揮するのである。
  • 教育とは、生徒に理解をもたらすことである。逆に言うと、教師の優秀さは生徒への対応能力、この一つに絞られる。

○第三章「何にも知らないバカはこんなことをする」

  • 志賀直哉『城の崎にて』は、芥川龍之介も称賛し、谷崎潤一郎も『文章読本』のなかで評価している。わたしは志賀直哉より谷崎潤一郎のほうがずっと好きだった。というのも、『城の崎にて』は写生文に過ぎないのではないかと思ったからだ。しかし、後年この写生の大切さを実感することになった。志賀直哉のこの作品で「もう古い」と言わねばならないのは、写生そのものよりも、それを通じて描こうとした人生観である。
  • 仕事が自分のものにならないのは、その基本が見えていないからである。
  • わからない方法には、「俺はわからないんだもんね」と正面突破する「天を行く方法」と、「わからないわからない」と悩み続ける「地を這う方法」がある。
  • 天を行く方法では、まったく記録や写真などを行わず、ただ見る。やたら情報をかき集めた後、考える。わかる前に経験する。
  • ユトリロの傑作は10点くらいしかない。すべて漆喰の壁を描いたもので「白の時代」といわれる。自分が寂しいということをしらずに寂しさを絵に表現(expression)してしまったのに違いないと考えられる。
  • 一方で、「地を這う方法」として『桃尻語訳枕草子』の執筆がある。古文の表現や文法のみならず著者の思考回路まで考え、適切な表現に悩み続けながら現代語訳を行った。『土佐日記』の翻訳では、当時の女の表現が男とあまり変わらないことがわかった。じつは、平安時代には丁寧語はなかったのである。また、ひらがな文章は話し言葉であったということもわかった。

○第四章「知性する身体」

  • わたしは膨大な知識を持っているがそれを整然と整理したりはしない。忘れるのが最大の記憶法のようなもので、身体のどこかに残っていればいいという考えである。有能な身体は、必要に応じそうしたものを引っ張り出すことができる。
  • 自分には面倒くさいことをやるという下地がある。そのうえに「わからない」や「できない」ということが載っている。また、自分にとってすべてのことは自分の中から出てくるものである。
  • 重要なものは、身体と経験と友人である。身体は思考の基盤であり、経験はたくわえられた思考のデータであり、友人は思考の結果を検証してくれるものである。

■読後感
これまでわからないこと自体に問題があるのだろうと思っていた部分もあったが、十分悩んでよいのではないか。
とりわけ「わかるように説明する」ことがどれだけ難しいのかきちんと語っており、自らの今の仕事と照らし合わせても納得できるところが多かった。
全体像が描けないということは、整理になんらかの工夫の余地・あるいは抜本的な問題があるということなのだろうと思われた。