塩沢由典『市場の秩序学』(第三部「人間と合理性の限界」)ちくま学芸文庫、1998年4月

■内容【個人的評価:★★★★−】
◎第三部「人間と合理性の限界」
○第七章「経済学における人間」

  • 経済学が成立してから百年ほどの間は、古典派といわれる。この古典派の人間像は、ひとことでいえば「個人」である。神への献身、共同体への義務でなく、自分の利益にしたがって行動する個人である。
  • 古典派においてはまだ、個人は理念であった。しかし、1870年代における限界革命を経て、価格が古典派のいう生産費説でなく、個人の価値評価に置くという転換を行い、新古典派といわれるようになる。新古典派は限界生産費説を補充し、数学的には一般均衡論としてこの百年くらい経済学の主流をなしている。
  • ケインズは、経済学を価格の科学から産出量の科学へと転換させたが、方法論的には旧来の枠組を大きく超えることはできなかった。

○第八章「「計算量」の理論と「合理性」の限界」

  • 効用最大化については、解けない問題としてある。モデルを単純化したとしても、計算には最高速の電子計算機を使っても解けないのである。
  • 最大化ではなく、サイモンのいう満足化原理が人間の判断の基底にある。

○第九章「反均衡から複雑系へ」

  • 新古典派は、マーシャル経済学の破たんと、独占競争理論の失敗を一般均衡論へ進むことで乗り切った。しかし、これはまやかしの解決でしかなかった。数理経済学の進歩も、一般均衡のプログラムによる数式化が経済学の実質的進歩につながらないことを示した。1970年代前後の批判と反省は、経済学の一部を反均衡の道に進ませ、その模索の中から「複雑系としての経済」という新しい研究プログラムを浮かび上がらせた。
  • 一般均衡論は、任意の初期条件の元で、主体の最大化行動により一挙に経済を構成すると考える。これに対し、複雑系では、経済は揺らぎを持った定常過程であり、個々の市場は緩衝装置を通してゆるく結びついている。この系の元では、経済行動の多くは定型化されており、経済はこうしたルーティン行動のつくり出す自己形成秩序である。系は複雑であり、普段の革新の可能性が残され、内部の累積過程とともに、経済は歴史的にのみ自己展開する。過程の再生産を前提とする古典派の分析は基本的に正しく、これに各種定型行動の分析を加え、現代古典派理論が形成されると考える。
  • 経済学は半世紀にわたる危機において基礎をとりかえることが必要であったが、それをしないまま世紀末を迎えた。
  • 後期新古典派の研究に限界が見えたとき、日本では西部邁森嶋通夫などが反動の旗手となった。しかし、社会理論への脱出、社会の基礎理論の構築から経済学を立て直すというこころみは、経済学から見れば逃亡に過ぎなかった。行うべきは脱出や拡散でなく、新古典派理論の中枢に打撃を加えることであり、すなわち均衡論を覆すことであった。
  • 反均衡については、ハンガリーのコルナイ・ヤーノシュ、ニコラス・カルドアなどがその先鋒をつとめた。
  • 真に重要な知見は経営学から生まれた。ハーバート・A・サイモンの「限界ある合理性」の考え方である。
  • 経済は複雑系である。複雑系にはいくつかのポイントがあり、ゆらぎを持つ定常過程が進化することがキーである。
    • 1.経済の主要な循環に比べてゆっくりと変化する自律的な累積過程
      • (1)販売量の増大による規模の利益の出現
      • (2)資本の蓄積に伴う使用機械の高級化
      • (3)熟練に伴う労働生産性の上昇
      • (4)労働生産性と賃金の上昇による消費財構成の高度化
    • 2.定型行動や経済構造の革新に伴うもの
      • (1)定型行動そのものの進化
      • (2)緩衝の装置やあり方の革新を含めて部分系の結合状態を変えること
      • (3)市場と商品の開発
      • (4)新技術の出現
  • 複雑系の進化は、時点時点ではなく、歴史的にのみ展開される
  • 複雑系においては、改良・革新の可能性はくみつくされることがない。系が複雑になればなるほど、大きな新たな設計変更には危険が伴う。しかし、社会と経済が袋小路に入ったときは思い切った改革が必要となる。
  • 現代古典派は、経済の調整機構に関する誤解をただし、経済の真実な動きを大きな図柄としても細部の精密画としても解明することである。