塩沢由典『市場の秩序学』(第二部「急進客観主義への迂回」)ちくま学芸文庫、1998年4月

■内容【個人的評価:★★★★−】
◎第二部「急進客観主義への迂回」
○第四章「スラッファ『批判序説』の射程」

  • 新古典派の思想的背景は、方法論上の個人主義にある。これに対し、スラッファの立場は、個人でもなければ全体でもない。どちらかというと反人間主義であり、ルイ・アルチュセールの立場とよく似ている。アルチュセールは、実践倫理としての人道主義を当然とし、また、強要しているところの近代の共通意識−人間一人ひとりが普遍的な本性を持ち、それが個人の主体的行動として表現されるという前提が問題であるとした。マルクスフォイエルバッハ・テーゼで開始したのは、主体とその本性からものを考えるという習慣に抗して新しい思考の枠組を用意することだった。スラッファが行ったことは、まさにこのマルクスの革命的な考え方を経済学に持ち込んだということである。スラッファは経済学から「主体」を追放した。
  • スラッファのテキストには、商品、交換価値、生産の条件、一年の活動等々が現れるが、人間は現れない。
  • 多くの経済学者は、生産と所得についてはケインズの考え方、価値と分配は限界理論で考えるという、二重生活を送っていた。サミュエルソンが、新古典派総合のテーゼを掲げたのは1955年のことである。
  • 主著『商品による商品の生産』でスラッファは均衡概念を拒絶するに至っている。なぜそれが可能だったのか、それは彼が反人間主義をとっていたからである。主体というものがここでは拒絶されているのだ。

○第五章「ピエロ・スラッファ−ひと、分配、認識」

  • 新古典派の中心的な命題が価格であったのに対し、古典派に属するスラッファの命題は生産である。物的な生産・再生産がまずあって、そのものの全過程の進行を支える社会的条件の一つとして価格がある。これに対し、ワルラスにおいては価格がすべてに優先している。
  • スラッファやマルクスにおいては、「主体」は経済的な場の中に登場してくる。かれは人間一般としてでなく、労働者、資本家など特定の機能を果たすものとしてとらえられる。

○第六章「不況の理論とスラッファの原理」

  • 不況が続いているが、新古典派には不況を記述する概念の枠組がない。新古典派では、完全操業を前提としており、不況というのは個別企業の倒産という形でしか把握されていない。
  • スラッファにおいては、企業の供給曲線が水平になるとか、需要曲線が屈折するとかの修正にとどまらず、需要曲線、供給曲線のいずれもが否定されている。