村川堅太郎『世界の歴史2 ギリシアとローマ』中公文庫、1974年11月
- 作者: 村川堅太郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 1974/11/10
- メディア: 文庫
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- ギリシア史初期の大事件としてトロヤの前1184年頃の10年の包囲の後の陥落がある。紀元前1100年頃には、ミケーネ時代の城塞の支配者たちは新しく北方から侵入してきたギリシア人によってつぎつぎに滅ぼされてしまった。この大混乱の後、暗黒時代が続き、前8世紀の半ばごろになるとポリスと呼ばれる小国家が無数に生まれた。このころ『イリアド』『オディッセイ』といった叙事詩が生まれている。
- ポリスの中でもアテネとスパルタは一つの県くらいの領域を持ち、例外的に大きかった。
- 古代民主政治の基本的な原理は、市民の間に治める者と治められる者との差別をなくすことにあった。職業的官僚を認めず、役人は任期を定めた。瑣末なことに至るまで抽選で決めていたようである。国家の最高決定機関は役人ではなくて市民総会であった。
- アテネにおける奴隷の数は10万人前後であったと見られる。召使いとして、また工業の製作所で労働した。
- ペロポネソス戦争は、前431年から404年までアテネとスパルタの間で行われた。ほとんどギリシアを二分した戦争となった。
- スパルタがアテネに勝ったのはペルシアの金によって有力な海軍を持つようになったからだった。
- プラトンはソクラテスの死刑に現実の政治をすっかり諦めさせ、哲人が支配者になるか、支配者が哲人になるのでなければ世の中はよくならないという考えを早くから抱いた。
- ギリシアが抗争を繰り返すなか、北方のマケドニアに有力な国家が生まれた。アレクサンダーは20歳でこの国の王となったが、プラトンの弟子であるアリストテレスは3年間にわたりアレクサンダーを教えている。
- アレクサンダーは前334年、約3万の歩兵と5千の騎兵を率いてダーダネルス海峡を渡り、アジアに突入した。ペルシアを滅ぼすまでに三度大会戦を行い、いつも斜線陣で大勝している。
- インドの西北部まで攻め入ったが、インドの長期の豪雨でガンジスまでは至らなかった。
- ヘレニズムとは、アレクサンダーの死後、前30年に地中海一帯がローマ帝国によって統一されるまでの300年の時代や文化をさしている。
- 大いに乱れた時代でもある。アレクサンダーの死後、イラン、メソポタミアから小アジアのセレウコス、エジプトのプトレマイオス、マケドニア、地中海一帯のポリスの四つの地域に分かれた。
- エジプトのアレクサンドリアは、他のアレクサンドリアを引き離し、プトレマイオス朝の王宮の所在地として、ヘレニズム文化の中心地、自然科学研究の中心地(アルキメデス、エラトステネス)として特異な位置を占めていた。
- ローマはギリシアと異なり海軍の活躍は目立たなかった。注目していたのは北方のケルト人の地方である。ケルト人はイタリアに攻め入っていた。
- 一方、カルタゴとローマは数度にわたり戦争をし、ローマは勝利した。
- 第一、第二ポエニ戦役により、カルタゴのハンニバルは南イタリア、シシリーからカルタゴにかけて、そしてイベリア半島東部を平定している。
- この後、シーザーによるガリア平定、そして独裁政治につながっていく。
- アウグスツスなどによりローマ帝国の基礎が固められたが、300年のゲルマン人の侵入によりローマ帝国は崩壊する。