立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』文藝春秋、1995年12月
- 作者: 立花隆
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1995/12
- メディア: 単行本
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○1「知的好奇心のすすめ」
- これまで40冊以上の本を書き、毎日が原稿に取り組む状態である。こうしたことを自分一人で他人の力を借りずに行ってきた。
- 実際に原稿を書いている時間も長いが、それ以上に取材や取材の準備に時間を費やしている。とりわけ最先端の研究者に話を聞きに行く前の準備には時間を要する。脳研究に関する取材ではそうした準備としてその著者の英文の論文を含めて読んだ。
- 鳥の脳に関しても取り上げた。面白いことにモネとピカソの絵を見分けたのみならず、モネを学習させた鳩は印象派に、ピカソを学習させた鳩は前衛派に強い反応を示した。なお、モネの絵は上下さかさまにすると正答率が激減するが、ピカソの場合にはあまり変わらなかった。また、バッハとストラビンスキーの曲を見分けたということも観察された。たった2グラムの脳でもこうした高次の能力がある。鳩は人間のように、ではなく、違ったロジックで世界を認識しているのだ。
- 朝から晩まで資料を読み、勉強をしている生活であるが、それほどストレスがあるわけではなく、逆に勉強が非常に好きである。今は54歳であるが、残り時間が少なくなってきたという自覚が強い。
- インプットしてアウトプットするという取り組みを毎日行っているが、たとえば脳研究最前線のために読んだ資料は大型の書棚1個半=500冊くらいある。だいたい自分の場合には100をインプットして1をアウトプットしている。
- 一生懸命勉強してもそのほとんどは自分のうちに残らないが、知的欲求にけん引されてそのようなことを行っている。
- 人間の知的欲求には実用的なものと純知的なものがある。文明社会においては、技術、工学など実用的な知的欲求によりさまざまなものを生み出しているが、これを下で支えているのは純知的な欲求である。なぜ知りたいんだ、と聞かれても、知りたいから、としか答えることができない。
- たとえばサルがヒトへ進化する過程を見ると、もともとはジャングルに住み、その豊富な食物を得ていたが、ある時点で、食物の貧しいサバンナへ進出している。ジャングルにとどまったサルはサルのままで、サバンナへ進出したサルはヒトへ進化した。しかし、なぜサバンナへ進出したのか、それはヒトに本来的に備わった知的欲求としか言いようがない。
- 知的欲求は、ヒトだけではなく動物にも備わっている。アメーバだって新しい環境では触手をあちこちに伸ばす。しかし、人間の場合は、自然環境的な外部世界を知りたいということがまずあって、サイエンスはその延長線上に生まれている。
- 動物の場合の知識は、それぞれの種に固有の共通知識であり、本数冊で済むものである。しかし、人間の知識の総量は何百万冊の本に匹敵する。この知識は種のメンバー全員で共有化しているわけではなく、それぞれの知識が特定少数者により分有されている。
- 知識総量が大きくなっても各人の知識量は狭い。つまり文明が発展するほど人間は無知の度を深めている。
- 人間が生まれ育っていく過程は、学習過程の繰り返しである。DNAにインプリントされた固有の能力にプラスアルファの機能が付け加えられていく。
- 情報処理の世界にオートマトンという言葉がある。自動販売機のように、あるインプットがなされれば特定のアウトプットをするという構造である。人間の精神は、このオートマトンの部分と自動化されていない意識化された行動の部分とに分けられるが、日常行動はほとんどオートマトン化されたものである。自動化されたものは小脳にしまいこまれている。小脳は小さいが細胞の数は極めて多い。人間が何かを学び、完全に習得すると手順は全部小脳にしまいこまれる。
- 知的欲求のレベルが低い人は、オートマトンができるとすぐに満足してしまう。しかし高い人は、オートマトンができると別のほうに意識を振り向けるようになる。オートマトンで行っている行為はほとんど記憶に残らない。しかし、知的好奇心を発動させて、意識化された行為を行ったことは記憶に残る。オートマトンだけの人間は、よくよく思い起こすと何もない人間ということになる。
- 日本には100歳以上生きる人がいるが、脳を見ると、ほとんど60歳と変わらないということがわかっている。
- 物忘れがひどくなる、人の名前が思い出せなくなるというのは、ちいさな脳梗塞が脳内で起きているからである。MRIで検査するとそれがよく分かる。しかし、小さな梗塞がいくら起きても脳はバイパスを作り出すようになっている。適切に使っていけば脳はとことん持つ。オートマトンに満足せず、知的欲求を常に新しいものに振り向けている人間は永遠に内面的成長を成し遂げることができる。
- 読書は、何をどういう目的で読むかということと切り離すことはできない。読書は、それ自体が目的という場合と、何らかの手段として行う場合に分けられる。
- 前者については文学書、後者については自然科学書を読むというケースが考えられる。
- 学生のころは文学書をよく読んだが、現在はまったくといっていいほど読んでいない。大学を卒業してからはノンフィクションを読むようになり、逆に文学者の想像力というものは生きた現実に比べ貧困であると思うようになった。
- 出版物について、古典を踏まえ、現代の知を総合したものについては「残る出版物」であり、それ以外のものは「一過性のもの」として分けられたりしている。しかし出版物というものは、内容にかかわらず一過性のものと言えるのではないか。
- 読書論というと古典を読め、という人がいるが、これは疑問である。
- 古典とは、500年、1000年という単位のふるいにかけて生き残ったものに対していわれるべきことで、トルストイやドストエフスキーを古典といってしまうのはどうか。ロマン・ロランやマルタン・デュ・ガールは、以前よく読まれたが、今では読む人はいない。カントやヘーゲルに関しても同じことが言えるのではないか。これこそが知の営みのメインストリームといえるものは10年20年経つと変わってしまうものである。
- 読むことを進めたい古典はある。たとえばプラトンなど、下らない部分はあるが、それを読むことを共通体験にすることにより、語り合うことができる。
- 古典が過去の知の総体なのではなく、最新のレポートの中にそれが含まれている。過去の知の総体を古典に求めてはいけない。古典に拘泥してはいけない。古典というのは人類の知がプリミティブだったときに生まれた作品である。
- いま脳死という課題に取り組んでいるが、50万円くらいかけ、3メートルの医学書を買い、読んでいる。一つひとつの領域の知のフロンティアで何が行われているのか伝えてくれるのは専門書である。
- アリストテレスの『形而上学』冒頭の言葉は、「人は生まれながらにして知ることを欲している」というのだが、これは人間の本質を見事に言い当てている。
- 知の総体が広がるにつれ、専門分野以外はわからないという状況になっている。知のインテグレーションが進んでいない。
- 授業で得た知識より、本を読んで得た知識の方が多いはずである。大学でも優れた教師ほど、自分の授業に学生を縛るのでなく、授業を通して独学の方法を教えようとする。
- まず大金を持って神田の書店街に行く。志を持続させるために前もって相当の金を使ってしまった方がよい。
- 語学を覚えるのであれば自分で家庭教師を雇う。2人で雇うのでなく、1人で雇うこと、これによって絞ってもらうことが必要だ。週2回を1年間やるのでなく、毎日1カ月やる方が効果的である。
- 入門書には2種類ある、教科書と教科書以前の一般向け入門書である。若い学者の書いたものの中には、意外と面白いものがある。
- 欠かせないのは、その学問の歴史、学説史、思想史である。これを読むことにより、その世界全体のパースペクティブを手早く頭に入れることができる。その学問が何をどう問題にしており、何が分かり何が分かっていないのか。人間のいかなる学問も未完である。どの学問でも壁に当たった場合、もう一度「何を」「どう」が問い直されることになる。
- 買ってきた本を積み上げ、ひたすら読む。精読する必要はなく、ノートもとらなくてよい。ノートをとらなくても本当に重要なことは繰り返し記述されているはずなので自然に頭に残るだろう。
- 買ってはみたが、その著者の考えについていけないような本はすぐに読むのをやめる。
- 独学で気をつけるべきは、質疑応答の過程がないため、ひとりよがりの解釈をしたままになってしまうということである。また、パースペクティブが得られないうちに専門に深入りしてしまうと、非常に偏った知識の体系をつくってしまうこととなる。
- 1.金を惜しまず本を買う
- 2.一冊で満足せず、必ず類書を読む
- 3.選択の失敗を恐れない
- 4.自分の水準にあわないものを無理して読まない
- 5.読みさしでやめることを決意した本も最後までページを繰ってみる
- 6.速読術を身につける
- 7.本を読みながらノートをとらない。時間の無駄。
- 8.人の意見やブックガイドに左右されない
- 9.注釈は本文より重要な場合がある、読み飛ばさない
- 10.懐疑心を忘れない
- 11.オヤと思う場所があったら、その著者がその情報をどうやって得たのか、またその判断の根拠はどこにあるのか考える
- 12.疑いがあるものについては必ず生のデータにあたる
- 13.翻訳には誤訳が多い
- 14.大学で得た知識などいかほどでもない。社会人になってから獲得した知識、とりわけ20代、30代のそれが、その人のその後の人生において決定的である。
- 私の好みの書斎は、1.外界から隔絶され、2.狭く、3.機能的に構成された、空間である。
- 秘書を選ぶとき、公募したら500名が応募してきた。最終的に選んだ人は高卒だったが、知識もさることながら意欲が非常に高かった。
- 学生の当時、マルクス『資本論』か、サルトル『存在と無』かというような流行があった。しかし、自分はベルジャーエフを読んでいた。サルトル流の無神論的実存主義になじめなかった。むしろ、キルケゴール、ドストエフスキー、ベルジャーエフのキリスト教的実存主義に共感した。
- 日本の作家は一通り読んだが熱心な読者というわけではない。平家物語、近松の浄瑠璃、黙阿弥の歌舞伎台本は読んだ。
- 小説ばかりを読んでいて、社会人になったら先輩からも指摘を受けノンフィクションを読むようになった。ちょうど世界ノンフィクション全集が筑摩書房から出て、その面白さに夢中になって読んだ。
- 論文は構成が決まっており読みやすい、冒頭に「要約及び結論」、次に「実験の方法」、「実験の結果」、最後に「議論」という構成になっている。
- 新しい領域の仕事をするときには、書棚二段分くらいの読書が必要。
- 勉強のスピードが早いのは、締め切りや対談のスケジュールに追われているから。
- 調べる過程は楽しいが、発見したことを一般の人に向けて分かりやすく書くのは大変なエネルギーを必要とする。
- エリアーデのような神秘思想、神秘主義には若いときから一貫して関心を持っている。あらゆる宗教の根底には神秘主義がある。