樺山紘一『パリとアヴィニョン』人文書院、1990年3月
- 作者: 樺山紘一
- 出版社/メーカー: 人文書院
- 発売日: 1990/04
- メディア: 単行本
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○はじめに
- 本書は、西洋中世における知識人のあり方を考察するいくつかの作業の一つである。知識人の一類型として、政治上の制度の形成と運営にかかわった知識人を取り上げる。
- 少なくとも11、12世紀以降になると、封建制の安定により中世政治における知的ルールの確立を促した。政治が知に門戸を開いた時代といえる。
- それまでの知はどちらかというとキリスト教的救済など内面観照にかかるものであった。しかし、このころになると、政治のことは知における関心事の一項となる。神学者であるトマス・アクィナスは世俗国家の統治者に対して平衡感覚に満ちた助言を残している。
- 本書においては二つの素材を用いている。一つはフランス、カペー朝のフィリップ四世王政府に結集した最高級官僚集団である。もう一つはアヴィニョンの教皇庁である。ここには教皇を先頭に20名に近い枢機卿集団と官僚団が組織された。
○第一章「問題のありか」
○第三章「構造と機能」
- 国王顧問会、高等法院、会計院、地方行政などから構成される。
- 官僚たちは、そのころ首府となりつつあったパリに在住し、王宮とその周辺で勤務した。シテ島王宮に数百人の官僚が在籍していた。
○第五章「補遺と総括」
- 官僚団は整序されたものではなく、階層、地域、知的基盤も多様・雑多なものであった。政治上の課題が多様化する中で、この特徴は王権の強さにもつながった。
○第一章「問題のありか」
- 南フランスのアヴィニョンは、教皇庁時代にバビロンの再現と形容された。汚辱に満ちた破廉恥な繁栄、貪欲と不正義、背信と堕落、これらすべてが集まって地上におけるもっとも醜悪な図柄を出現させる。
- ローマ教皇はこの地に拘引されてバビロン捕囚の憂き目にあっている。1309年に教皇クレメンス五世がアヴィニョンに執務の地を置いてから、1376年にグレゴリウス十一世がローマ帰還を成し遂げるまで67年間は、中世教皇史上でも最も不名誉な時代とみなされてきた。
- 暗色に塗られたアヴィニョン像はペトラルカなどイタリアの文筆家によるものである。すでにイタリアでは初期ルネサンスを迎えつつあったが、それと対比してアヴィニョンを暗いものとしてとらえる傾向にあり、それが現在まで引き継がれている。
- しかし、G.モラの研究により、当時のアヴィニョンにあって、教皇がはじめて本来の力を発揮できるようになったと肯定的な評価をしている。
- アヴィニョンの67年間に6人の教皇が登場した。
- ローマ教皇庁は、組織は極めて初歩的なものであった。これに対し、アヴィニョン教皇庁は、集権的で、文書、裁判、財政などが教皇庁組織原理により導入・運営された。こうした制度、組織上の整備は同時代のフランス王国を凌駕している。
- アヴィニョンで支払われる財政支出は、当時の世俗王国の数倍にも上るものであった。イタリアの教皇領保守のため軍事支出も必要になり、増税が行われ、とりわけドイツやイギリスでの反発は大きかった。
- イタリアで黒死病が出現したのは1347年であるが、翌年にはアヴィニョンに到来し、教皇こそ無事であったが、12000〜20000人、つまり40%近くの人口が減耗した。これは全ヨーロッパの30%に比べ高い数値である。
- 黒死病ののち、ジャクリーの乱など農民反乱が広く起こった。
- このような中、アヴィニョン庁は十字軍派遣の計画を推奨した。聖地奪回のみならず、イベリア半島のグラナダ王国のイスラム教徒への攻撃、東ヨーロッパにおけるモンゴル人国家(ポーランド、リトアニア)、イタリア教皇領の保全を目標に十字軍が編成された。
- アヴィニョンは栄華を極めた。贅沢と祝典が特徴であり、教皇庁の宮殿に多額の費用がかけられた。
○第五章「補遺と総括」
- 組織上の知についていえば、法的制度化に多くが向けられていた。
- 官僚制度は、世俗国家を参考にしている。現にアヴィニョン庁の官僚はフランス王権を経由したものが多い。