樺山紘一『パリとアヴィニョン』人文書院、1990年3月

パリとアヴィニョン―西洋中世の知と政治

パリとアヴィニョン―西洋中世の知と政治

■内容【個人的評価:★★★−−】
○はじめに

  • 本書は、西洋中世における知識人のあり方を考察するいくつかの作業の一つである。知識人の一類型として、政治上の制度の形成と運営にかかわった知識人を取り上げる。
  • 少なくとも11、12世紀以降になると、封建制の安定により中世政治における知的ルールの確立を促した。政治が知に門戸を開いた時代といえる。
  • それまでの知はどちらかというとキリスト教的救済など内面観照にかかるものであった。しかし、このころになると、政治のことは知における関心事の一項となる。神学者であるトマス・アクィナスは世俗国家の統治者に対して平衡感覚に満ちた助言を残している。
  • 本書においては二つの素材を用いている。一つはフランス、カペー朝のフィリップ四世王政府に結集した最高級官僚集団である。もう一つはアヴィニョン教皇庁である。ここには教皇を先頭に20名に近い枢機卿集団と官僚団が組織された。

◎第一部「パリ−フィリップ四世王政府」
○第一章「問題のありか」

  • ルイ九世の孫として十三世紀末に即位したフィリップ四世王は、国王を実質上中軸とする統治構造を形成し、未完成ながら近代的統合国家を完成しようとしていた。この後、カペー朝の断絶、英仏百年戦争黒死病と農民反乱などがなければいちはやく近代国家に成長していたであろう。
  • 官僚はそれまで家産官僚、つまり王家の私的家政をおこなう主体であったが、この時期に王国行政を担う主体となっていった。司法、財政、外交といった機能別の区分も意識されるようになる。
  • 行政上の文書についての整備も進み、文書の作成管理を任される書記官も生まれた。

○第二章「事件の時代史」
○第三章「構造と機能」

  • 国王顧問会、高等法院、会計院、地方行政などから構成される。
  • 官僚たちは、そのころ首府となりつつあったパリに在住し、王宮とその周辺で勤務した。シテ島王宮に数百人の官僚が在籍していた。

○第四章「人間たち」
○第五章「補遺と総括」

  • 官僚団は整序されたものではなく、階層、地域、知的基盤も多様・雑多なものであった。政治上の課題が多様化する中で、この特徴は王権の強さにもつながった。

◎第二部「アヴィニョン
○第一章「問題のありか」

  • 南フランスのアヴィニョンは、教皇庁時代にバビロンの再現と形容された。汚辱に満ちた破廉恥な繁栄、貪欲と不正義、背信と堕落、これらすべてが集まって地上におけるもっとも醜悪な図柄を出現させる。
  • ローマ教皇はこの地に拘引されてバビロン捕囚の憂き目にあっている。1309年に教皇クレメンス五世がアヴィニョンに執務の地を置いてから、1376年にグレゴリウス十一世がローマ帰還を成し遂げるまで67年間は、中世教皇史上でも最も不名誉な時代とみなされてきた。
  • 暗色に塗られたアヴィニョン像はペトラルカなどイタリアの文筆家によるものである。すでにイタリアでは初期ルネサンスを迎えつつあったが、それと対比してアヴィニョンを暗いものとしてとらえる傾向にあり、それが現在まで引き継がれている。
  • しかし、G.モラの研究により、当時のアヴィニョンにあって、教皇がはじめて本来の力を発揮できるようになったと肯定的な評価をしている。

○第二章「事件の時代史」

○第三章「構造と機能」

  • 合理的な職務体系が成立していたわけではない。きわめてアド・ホックな行政処理が行われていた。
  • 総計1300人余が教皇庁の運営にかかわっていた。これは疑いなく14世紀ヨーロッパで最大の事業所である。中世最大の行政都市であった。
  • アヴィニョン市は教皇庁がおかれるまではごく平凡な集落であった。ここは後期ローマ時代には戦略的な要衝であった。
  • ベネゼ橋は、ローマ期に架されたものでありローヌ川下流の橋であった。これは崩壊し、長らくそのままにおかれた。
  • 城壁は、十二世紀中葉と十三世紀初頭につくられたが、市域の拡大により、十四世紀後半に第三次の城壁がつくられた。

○第四章「人間たち」
○第五章「補遺と総括」

  • 組織上の知についていえば、法的制度化に多くが向けられていた。
  • 官僚制度は、世俗国家を参考にしている。現にアヴィニョン庁の官僚はフランス王権を経由したものが多い。