加藤周一『読書術』岩波現代文庫、2000年11月
- 作者: 加藤周一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/11/16
- メディア: 文庫
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◇「何を読むべきか」は一概に言えないが「どう読むべきか」は言える
- どういう女を口説いたらよかろうか、ということが一般的に言えないとしても、それはかならずしも、どう女を口説いたらよかろうか、という議論ができないということではありません。古来「手練手管」というものがある。(ivページ)
◇読書は役に立つものもあるが、まずたのしむもの
- 私は、手あたりしだいに本を読んで、長い時を過ごしてきました。そういうのを世の中では「乱読」というようです。「乱読」の弊−しかし、そんなことを私は信じません。「乱読」は私の人生の一部で、人生の一部は、機械の部品のように不都合だから取りかえるというような簡単なものではない。「乱読」の弊害などというものはなく、ただ、そのたのしみがあるのです。(vページ)
◇読書はゆったりとした姿勢で、「机の前に居ずまいを正して」は排する
- 私は読書に机を用いる機会を必要やむをえない最小限度にとどめるのが、うまいやり方だろうと考えています。(14ページ)
◇読書はその人そのもの、自分自身を読書で発見する
- はじめに「読書は旅に似ている」といいました。旅から帰ってきた人の話を聞いてごらんなさい。同じ北海道へ行っても、同じ九州へ行っても、行った人によってその印象は違うでしょう。見た人それぞれの性格が、その旅先での印象にはっきりと出ているからです。どこへ行っても、人は自分を発見します。同じように、どんな本を読んでも、人はみな自分をその中に発見するのです。(42ページ)
◇読むことには限界があり、それは全体の一部でしかない
- 蔵書家は必ずしも多読家ではありません。また、はやく読もうと、おそく読もうと、どうせ小さな図書館の千分の一を読むことさえ容易ではない。(98ページ)
◇スノビズムは文化の向上に必要なもの
◇自分がわかりそうもない本は読まない
- しかし、世の中にはむずかしい本があります。どうすればたくさんの本を読んで、いつもそれをわかることができるようになるでしょうか。その方法は簡単です。しかし、おそらく読書においてもっとも大切なことの一つです。すなわち、自分のわからない本はいっさい読まないということ、そうすれば、絶えず本を読みながら、どの本もよくわかることができます。少しぺージをめくってみて、あるいは少し読みかけてみて、考えてもわかりそうもない本は読まないことにするのが賢明でしょう。(173ページ)
- しかし、なぜ、一冊の本が私にとってむずかしいかといえば、その理由は、つまるところ、私がその本を求めていない、べつの言葉でいえば、私にとって少なくとも、いまその本は必要でないという点に帰着するでしょう。要するに、私にとってむずかしい本は、その本が悪い本であるか、不必要な本であるか、どちらかです。(207ページ)
この本を読んで改めて思うのは、読書はアメーバのようなもので、自分に必要な知識なり愉しみなりをその触手で摂取して増殖していくものではないかということです。しかし、昔読んだ本のことは、かなり一生懸命取り組んだ本を除き、よほどでない限り忘れてしまっている人も多いのではないでしょうか。つまり「自分アメーバ」の触手自体が衰退したり、何か別の方向の触手に置き換えられたりしていくものなのであって、けっして積み木のように積み上げられるものではないのではないかということです。
もともと読書をするための時間(とくに好適な時間)は限られています。(今のところ考える読書は午前中、愉しむ読書は午後から夜間が多いと思います。)また、いくら読んでもその分量には限界があります。(ダイジェストは人のフィルターを通しているため、本当の読書とは言えません。)
読書は、自分を発見するためのもの。人は読書を通じて自分を見出す。だから、読書はひとぞれぞれであり、「何を読むべきか」は人によって異なり、「全部読んでやろう」では、本来の読書の意味から外れてしまうことになります。
だからこそ、触手に引っかかった本に愚直に取り組んだり愉しんだりするしかないのが読書ではないでしょうか。蓄積ではなく愉しみとして。