関川夏央、谷口ジロー『『坊っちゃん』の時代』双葉文庫、2002年11月

 

『坊っちゃん』の時代 (双葉文庫)

『坊っちゃん』の時代 (双葉文庫)

 

 

■内容【個人的評価:★★★--】

◇坊ちゃんほど哀しい小説はない(関川夏央
  • わたしはつねづね『坊っちゃん』ほど哀しい小説はないと考えていた。 この作品が映像化されるとき、なぜこっけい味を主調に演出されるのか理解に苦しんでいた。 そしてそれらの作品はことごとくわたしの期待を裏切って娯楽とはいいがたかった。 同時に、明治がおだやかで抒情的な時代であるという通俗的でとおりいっぺんな解釈にもうんざりしていた。 明治は激動の時代であった。 明治人は現代人よりもある意味では多忙であったはずだ。 明治末期に日本では近代の感性が形成され、それはいくつかの激震を経ても現代人のなかに抜きがたく残っている。 われわれの悩みの大半をすでに明治人は味わっている。 つまりわれわれはほとんど(その本質的な部分では少しも)新しくない。 それを知らないのはただ不勉強のゆえである、というのがわたしの考えであり、見通しであった。 また、ナショナリズム、徳目、人品、「恥を知る」など、本来日本文化の核心をなしていたはずの言葉を惜しみ、それらがまだ機能していた時代を描き出したいという強い欲望にもかられた。 そこでわたしは『坊っちゃん』を素材として運び、それがとのように発想され、構築され、制作されたかを虚構の土台として、国家と個人の目的が急速に乖離しはじめた明治末年を、そして悩みつつも毅然たる明治人を描こうと試みた。(249-250ページ)
◇現代と「文学」(高橋源一郎
  • わたしは、政治や文学というものに対して、どう対応していいのかよくわからない。 無視することはできない。 しかし、単純に熱中することもできない。 周りの世界の動きに敏感に反応はするが、しかし、だからといって、なにかを積極的にする気にはなれない。 しかし、また、同時に、個人的な楽しみにひたりきることにも、ただ淡々と日々を暮らしていくことにも、どこか抵抗を覚える。 要するに、わたしたちは、中途半端なのである。 だが、中途半端なのはわたしたちだけではない。 ある時期から、世界は中途半端なものになってしまった。 「近代文学が切実に読者にもとめられていた時代」が終わった時、人々の胸の中から、あらゆる「理想」が消え去ったのである。 「理想」が存在する時、人はどんな状況にも耐えられる。しかし、「理想」をなくした時、人はただ、目の前の現実につき動かされて生きるしかないのである。 その影響をもっとも受けたもの。 それは「文学」である。時代と人々から「理想」が消えた時、「文学」はその最大の支援者を失った。 そして、人が呆然として生きる他なかったように、「文学」もまた呆然として、ただ生きるしか術はなかったのである。 (259ページ)

■読後感

ここで取り上げられた漱石の『坊っちゃん』をはじめとする日本文学の作品群が生み出された明治時代から大正時代にかけては、日本社会自体が「瓦解」(=明治維新)を機に西欧文明を強力に取り入れていった時代であり、その中で人々は国家としての方向性や人間のあるべき姿を日々考えていた。

日本文学は、それぞれ視点の違いはあるものの、こうした模索を続けていた人々にとって一つの拠り所となるものであり、考え方を育てる踏み石となるものであった。

本書によれば、漱石は、そうした文学者の中でも、英国留学の経験も踏まえ、そのまま西欧文明を導入することについて「張り子の虎」と称し、大いなる危機感を持っていた。また、『坊っちゃん』では、合理的で独善的なふるまいではなく、日本の歴史の中で培われてきたある種の優しさ、人々の間のつながりを大切にすることが「清」という女性の姿を通じて表現されている。