杉山光信『現代フランス社会学の革新』新曜社、1983年1月

■内容【個人的評価:★★★−−】

  • かつて丸山真男は日本においてマルクス主義のもたらした思想史的意義として、マルクス主義が「学の倫理性」とともに「学の全体性」を教えたことだと指摘したことがあった。
  • 学の全体性のセンスをもっとももっていてもおかしくない社会経済史家たちのうちから、研究の行き詰まりの声が聞かれ、そこからの脱出口として社会史への関心が高まっている。
  • フーコーはもちろん、クロジエやトゥーレーヌなどの社会学者は、私たちをとりまいているすべての社会現象を、他の学問が既成の装置やモデルを用いてどんなふうに扱っていようと、自分たちの装置と論理でともかく分析し、説明している。
  • フランスの社会学についてよく知られているのは古いことばかりである。思い浮かべられるのはまずデュルケムだろう。しかし、デュルケムは日本でいえば明治時代の後半に活動した人である!
  • ル・ロワ・ラデュリーは、アルチュセールが天才であるともてはやされ始めた1960年代に「認識論的切断」の説を知り、若きマルクスマルクス主義の公式の科学の外に置くその態度に、もっとも本質的な要素を無視しようとしているのではないかととらえた。このようにアナル派の歴史家たちはアルチュセールマルクス主義をまったく問題にしなかった。

○「権力概念の転換−社会科学にとってのフーコー−」

  • 監獄の制度は、法律に違反する恐れのあるものを従順にすることをそれほど目標とするわけではなく、服従・強制の一般的ストラテジーの中に法律への違反を計画的に配置しようとしている。刑罰制度とは、違法行為を管理し、不法行為の黙許の限界を示し、あるものには自由の余地を与え、他のものには圧力をかける。一部の人々を排除し、ある人々を無力にし、別の人々から利益を引き出す、そうした方法といえるだろう。
  • 権力を、支配階級の権力=国家権力という形でなく、社会的行為者のあいだで取り結ばれる関係として権力を考えようという方向は、社会科学のうちではヴェーバーの有名な定義をも含めて、以前から存在していたし、今日のフランスでは社会学者のミシェル・クロジエにより発展させられている。
  • フーコーは、今日ではまったく忘れ去られたベンサムの著作のうちから、監獄の設計に関する「一望監視施設」(パノプティック)という着想を掘り起こした。この一望監視方式は、アンドレ・グリュックスマンの『思想の首領たち』でも取り上げられて、フィヒテヘーゲルのもとで考えられていた「理性的な近代国家」の中心原理であるとみなされている。しかし、フーコーの権力の概念と結びついている社会のヴィジョンはこれとは正反対のものであった。一望監視施設も、フーコーによれば、過剰な権力の行使が形を変えて存続する間に開発された権力の仕掛けのひとつである。

○「フランスの左翼とその知識人」

  • 日本ではマルクス主義は「日本資本主義論争」以来、現状分析と結びついて論じられてきたけれど、そのような伝統を持たないフランスでは、知識人のマルクス主義は、いつも哲学としてのそれであった。
  • アルチュセールも、資本論について、現実の経済とつきあわせることなく、マルクス主義を非歴史化することで、むしろ具体的問題と取り組ませない方向へ導くものであった。

○「アラン・トゥーレーヌの思想とフランス社会党
○「思われざる効果と二人の社会学者−R.ブードンとM.クロジエ−」

  • ブードンとクロジエとが「思われざる効果」から導いたことは、社会をプログラム化されたユートピアにつくり変えようとする立場の否定である。
  • 複雑な諸部分での間で、数知れぬほどの交渉・取引のゲームが生じてきて、それらが悪循環を作り出す。

○「出来事の社会学
○「保守化社会論の再検討」
○「デュルケムの新研究」

■読後感
フーコーやクロジエの権力概念、無数の関係において行為されるというこの考え方は、社会規範自体が権力「行使」の基盤となっているということになる。