小此木啓吾・河合隼雄『フロイトとユング』思索社、1978年11月

■内容【個人的評価:★★★−−】
○第一章「出会い」
○第二章「人間フロイト、人間ユング

  • 無意識の創造性ということですが、フロイトにはそういう考え方がない点でユングとはちがいますね。(小此木)
  • フロイトは克服するという面が強いでしょう。(河合)
  • ユンギアンで一番重要なのは創造性でしょう。そして、その創造性は世の中に役に立つものでなくても、自分の人生を創造するものであればいい。だから売れない絵をいくら描いてもいい。(河合)

○第三章「人間の心をめぐって」

  • ユングの場合はどうしても一番関心のあったところは普遍的無意識の話ですね。子供のときからのクライン流の発達的な幼児期の体験と結び付けてこういう段階を経て出来上がってくるというような見方よりは、大人の無意識の今のあり方を問題にする。(河合)

○第四章「夢を語る」

  • 自我心理学の歴史からいうと、フロイトのいわなかった自我の機能をいろいろと研究したのは、みんな分裂病をあつかった人なんです。どうしてかというと神経症の患者さんは分析をすれば答えは出てくるわけです。ところが分裂病領域をやると、統合能力が弱いから、やはり理論の中に入れないと治療法が出てこない。ですから僕がフロイトに欠けていると思うのは、欲動というか、自分の中の影の部分という表現でもいい、そういうものと自我とがどのように仲良くやっていくかという理論ですね。(小此木)

○第五章「文化と社会」

  • 日本の母親たちはグレイト・マザー元形の犠牲になっているんじゃないかと思うんですがね。すべてを受け入れなければならない、あきらめねばならないというのが非常に強いから、個人としての感情よりも、運命的な流れに忍従してしまうという面が強いですね。(河合)
  • 実在のお母さんとグレイト・マザーを同一視して、期待ばかり大きくなって、お母さんはその重荷にうちひしがれてしまっている。(小此木)
  • 日本の親は、男と女であってはならない、まず親でなければならない、というものが厳然とありますね。西洋だったら、男と女であって、親は二次的なものだという考えが確立しているから、そこが非常に違います。(小此木)